て来たからであります。
「野郎!」
 米友を一掴《ひとつか》みにして、引裂いて食ってしまう権幕で迫って来たその形相《ぎょうそう》が、人を驚かすに充分です。
 それは今、米友の一撃を、眉と眉の間に受けて、そこから血が流れ出したからです。
「何だ!」
 そこで、米友が一足さがって杖槍を再び取り直しました。
「野郎!」
 裸松は野獣の吠《ほ》えるような勢いをして、米友にのしかかって来たのを、米友が、
「ちぇッ」
と言って、その肩を右から打つと、裸松が再びひっくり返ろうとして、危なく踏みとどまりましたが、よほど痛かったと見えて、目をつぶって暫く堪《こら》えているところを、米友が下から顎を突き上げると、裸松が一堪《ひとたま》りもなくまた後ろへひっくり返って、暫くは起きも上ることができません。
 これは米友の手練《しゅれん》だから、どうも仕方がありません。無法で突くのと、手練で突くのとの相違は、心得さえあれば直ぐにわかるはず。いわんや一撃を食《くら》ってみれば、その痛さかげんでも、大抵わかりそうなものだが、この裸松にはわかりませんでした。自分が後《おく》れを取ったのは、つまり自分が力負けをしたものに過ぎない、不意を襲われたために、この小童《こわっぱ》にしてやられたのだ、用心してかかりさえすれば、なんの一捻《ひとひね》りという気が先に立つのだから、負けていよいよ血迷うばかりで、彼我《ひが》を見定めるの余裕があろうはずがありません。でも、この小童の手に持つ得物《えもの》の、思いもつけぬ俊敏さに業《ごう》が煮えたと見えて、三度目に起き直った時、路傍に有合わせた松丸太を握っていたのは、多分この丸太で、小童ともろともに、そのめまぐるしい得物を、微塵にカッ飛ばしてやろうとの了簡方《りょうけんかた》と見えます。
 この時、両側の店々では、戸を細目にあけたり、二階の上に立ったりして、街道中《かいどうなか》の騒動に眼をすましました。眼をすまして見ると、相手は相も変らず裸松だが、一人はホンの子供です。夕暮の町で遠くから見れば、米友の姿は、誰にも子供のようにしか見えないのだから、知らないこととはいいながら、気の強い子供もあればあったものと、舌を巻かないものはありません。
 裸松が、その松丸太をブン廻してもり返した時に、米友は、また少しばかり後ろへさがって、その杖槍を正式に構えて、円い眼をクルクルと廻
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