け込みました。
「やい、やい、軽井沢にゃあ、宿役も、問屋も無《ね》えのかい、人がヒドイ目にあっているのを、助けるという奴がいねえのかい。冗談じゃねえ、おいらの先生をヒドイ目にあわせようという奴は、どこにいるんだ、やい」
 米友がこう叫んで歯がみをしながら、軽井沢の町の真中を走《は》せ通りました。
 またいけない! とその声を聞いた町の者が、再び顫《ふる》え上りました。あのお医者さんの連れというのが来たな、いいところへといいたいが、ほんとうに悪いところへ来た。一人でたくさんなのに、また一人ヒドイ目に逢いたがって来た。裸の松の怖るべきことを知らないで、相手になりたがって来た。いったい、気が利《き》かないじゃないか。桝形《ますがた》の茶屋の番人は何をしている。あそこで食いとめて、こちらへ入れないようにしたらよかりそうなものじゃないか。
 入って来た以上は、仕方がない――
 その時です。歯がみをして、軽井沢の町へ怒鳴り込んだ宇治山田の米友は、ふと足もとにころがる一つの提灯《ちょうちん》を見て、まず穏かでないと思いました。
 その提灯は梅鉢の紋、それがいわゆる菅公以来の加賀様の紋であって、その下に「御用」の二字。
 ああ、なるほど、わが道庵先生は、この加賀様なるものの手先にとっつかまって、難題を起しているのだなと、早くも感づきました。相手が百万石の加賀守では、駅の者も手出しができないで、その亡状《ぼうじょう》に任せているのだなと米友が気取《けど》ると、またも歯をギリギリとかみ鳴らしました。
 こういう場合の米友には、義憤と、反抗とがわいて、相手が強ければ強いほど、ふるい立つのを例とする。
 てっきり、これは百万石の加賀守のお供先が、何かの行違いで、わが道庵先生をつかまえて、暴圧を加えているのだな、とこう感づきました。それで彼は、この提灯の梅鉢の紋に向って、反抗の心が潮《うしお》の如くわき出したのです。
 しかし、これは少なくともこの際、米友の推察は立入り過ぎていました。邪推とはいわないけれども、筋道の考え方が生一本《きいっぽん》に過ぎていました。
 いわゆる百万石、加賀様の御威勢は、この街道に於て、そんな圧制なものではない。むしろ、その寛大と、鷹揚《おうよう》と、自然、金銀の切れ離れのよい大大名ぶりは、この街道筋の上下を潤《うるお》して、中仙道、一名加賀様街道といわれたほどに
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