の手で行こうとする。その手で行くより術《すべ》はあるまいが、いったん味を占めてみると忘れられないらしい。事実、こんな面白い商売はないと思っている。
そうして、江戸、麹町番町の三宅三郎の道場へ来た。
この三宅という人は心形刀流《しんぎょうとうりゅう》の達人で、旗本の一人ではあり、邸内に盛んなる道場を開いて、江戸屈指の名を得ている。
そこへ臆面《おくめん》もなく訪ねてきた山本南竜軒。例の二十七貫を玄関に横づけにして頼もうという。門弟が応接に出ると例によって、拙者は諸国武者修行の者でござるが、当道場の先生にもぜひ一本のお手合せが願いたい――これまで各地遍歴の間、これこれの先生にみな親しくお立合を願っている――と例の芳名録を取り出して門弟に示すと、それには各地歴々の剣客が、みな麗々《れいれい》と自筆の署名をしているから、これは大変な者が舞い込んだ、と先生に取次ぐ。道場主、三宅三郎もそれは容易ならぬ客、粗忽《そこつ》なきように通しておけと、道場へ案内させて後、急に使を走らせて門人のうち、優れたるもの十余人を呼び集める。
そこで三宅氏が道場へ立ち出でて、南竜軒に挨拶があって後、これも例によって、まず門弟のうち二三とお立合い下さるようにと申し入れると、南竜軒は頭を振って、仰せではござるが、拙者こと、武者修行のために国を出でてより今日まで二年有余、未だ曾《かつ》て道場の門弟方と試合をしたことがない、直々《じきじき》に大先生とのみお手合せを願って来た、しかるに当道場に限ってその例を破ることは、この芳名録の手前、いかにも迷惑致すゆえに、ぜひぜひ、大先生とのお手合せが願いたい――と、いつもやる手で、二年余り熟練し切った口調で、落ちつき払って申し述べる。
そういわれてみると、三宅先生もそれを断わるわけにはゆかない。ぜひなく、それでは拙者がお相手を致すでござろろう。
そこで、三宅先生が支度をして、南竜軒に立向う。
南竜軒は竹刀《しない》を正眼《せいがん》につける。三宅先生も同じく正眼。
竹刀をつけてみて三宅三郎が舌を巻いて感心したのは、あえて気怯《きおく》れがしたわけでもなんでもない、事実、南竜軒なるものの構え方は、舌を巻いて感心するよりほかはないのであった。
最初の手合せで、しかも江戸に一流の名ある道場の主人公その人を敵に取りながら、その敵を眼中におかず、余裕綽々《よゆう
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