払った竹刀が、鬼歓の胴を一本!
「命はこっちに!」
と勝名乗りをあげた見事な働き。これは敵も、味方も、文句のつけようがないほど鮮かなものであった。
 江戸第一が、明らかに九州第一に敗れた。無念残念も後の祭り。
 無論、この勝負、術の相違よりは、最初から歓之助は敵を呑んでかかった罪があり、松浦は、謹慎にそれを受けた功があるかも知れないが、勝負においては、それが申しわけにはならない。
 仏頂寺は兵馬に向って、この勝負を見ても、歓之助の術に、まだ若いところがあるという暗示を与え、丸山が激賞した逆上《のぼせ》を引下げるつもりらしい。
「惜しいことをしましたね」
と兵馬は歓之助のために、その勝負を惜しがると、仏頂寺は、
「全く歓殿のために惜しいのみならず、そのままでは、斎藤の練兵館の名にもかかわる。そこで雪辱のために、吉本が出かけて行って、見事に仇を取るには取ったからいいようなものの」
と言いました。
「ははあ、どなたが、雪辱においでになったのですか、そうしてその勝負はどうでした、お聞かせ下さい」
「吉本が行って、松浦を打ち込んで来たから、まあ怪我も大きくならずに済んだ」
といって仏頂寺は、斎藤歓之助のために、九州へ雪辱戦に赴いた同門の吉本豊次と、松浦との試合について、次の如く語りました。
 無論、吉本は歓之助の後進であり、術においても比較にはならない。しかし、この男はなかなか駈引がうまい。胆があって、機略を弄《ろう》することが上手だから、変化のある試合を見せる。歓之助すらもてあました相手をこなし[#「こなし」に傍点]に、わざわざ九州へ出かけて、松浦に試合を申しこみ、さて竹刀を取って道場に立合うや否や、わざと松浦の拳をめがけて打ち込み、
「お籠手《こて》一本!」
と叫んで竹刀を引く。
「お籠手ではない、拳だ」
 松浦は笑いながら、その名乗りを取合わない。無論、取合わないのが本当で、戯《たわむ》れにひとしい振舞で、一本の数に入るべきものではない。
 ところが、吉本豊次はまた何と思ってか、取合わないのを知らぬ面《かお》で、竹刀《しない》をかついで道場の隅々をグルグル廻っているその有様が滑稽なので、松浦が、
「何をしている」
と訊《たず》ねると、吉本は抜からぬ顔で、
「ただいま打ち落した貴殿の拳を尋ねている」
 この一言に、松浦の怒りが心頭より発した。
 松浦の怒ったのは、吉本の思
前へ 次へ
全176ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング