て応《あしら》わねばならぬ。
 歓之助、時に十七歳――彼等壮士の結構を知るや知らずや、従容《しょうよう》として十余人を一手に引受けてしまった。
 もとより、修行のつもりではなく、復讐《ふくしゅう》の意気でやって来た壮士連。立合うつもりでなく殺すつもり。業《わざ》でいかなければ、力任せでやっつけるつもりで来たのだから、その猛気、怒気、当るべからざる勢い。歓之助、それを見て取ると、十余人を引受け、引受け、ただ単に突きの一手――得意中の得意なる突きの一手のほか、余手を使わず、次から次と息をつかせずに突き伏せてしまった。
 哀れむべし、長州遠征の壮士。復讐の目的全く破れて、十余人の壮士、一人の少年のために枕を並べて討死。宿へ引取ってから咽喉《のど》が腫《は》れて、数日間食物が入らず、病の床に寝込んだものさえある。
 長人の意気愛すべしといえども、術は格別である。中央にあって覇を成すものと、地方にあって勇気に逸《はや》るものとの間に、その位の格段がなければ、道場の権威が立つまい。
 しかし、貴島又兵衛あたりは、このことを右の話通りには、本藩へ報告していないようだ。
 貴島は、長藩のために、のよき剣術の師範物色のため、江戸へ下り、つらつら当時の三大剣客の門風を見るところ、斎藤は技術に於ては千葉、桃井には及ばないが、門弟を養成する気風がよろしい――というような理由から、国元へ斎藤を推薦したということになっている。
 ところで、これはまた問題だ。右の三大剣客の技術に、甲乙を付することは、なかなか大胆な仕事である。貴島又兵衛が、斎藤弥九郎の剣術を以て、桃井、千葉に劣ると断定したのは、何の根拠に出でたのか。この三巨頭は、一度《ひとたび》も実地に立合をした例《ためし》がないはず。
 千葉周作の次男栄次郎を小天狗と称して、出藍《しゅつらん》の誉れがある。これと斎藤の次男歓之助とを取組ましたら、絶好の見物《みもの》だろうとの評判は、玄人筋《くろうとすじ》を賑わしていたが、それさえ事実には現われなかった。もし、また、事実に現わして優劣が問題になった日には、それこそ、両道場の間に血の雨が降る。故に、それらの技術に至っては、おのおの見るところによって推定はできたろうが、断定はできなかったはず。
 丸山勇仙は当時、長州壮士が練兵館襲撃の現場に居合せて、実地目撃したと見えて、歓之助の強味を賞揚すると、
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