かりませんや」
いざやと壺振りが、勢い込んで身構えをする。
二三番するうちに、新入者がまた二三枚加わる。加わった当座は多少の目が出ると、有頂天《うちょうてん》になり、やがてそのつぎは元も子もなくして、着物までも脱ぎにかかる。取られれば取られるほど、眼が上《うわ》ずってしまう有様が見ていられない。
こうなってみると駒井甚三郎も、相手を憚《はばか》ってはいられない。そこで思いきって、一座の方へ進み出でました。
「これこれ、お前たち、いいかげんにしたらいいだろう」
「何が何だと……」
諸肌脱《もろはだぬ》ぎで壺振りをやっていたのが、まずムキになって駒井に食ってかかりました。
「そういうことをしてはいけない、乗合いのものが迷惑する」
と駒井が厳然としていいました。
しかし、この遊民どもは、駒井が前《さき》の甲府勤番支配であって、ともかくも一国一城を預かって、牧民の職をつとめた経歴のある英才と知る由もない。このことばには荘重《そうちょう》なものがあって、厳として警告する態度はあなどり難いものがあったとはいえ、今、異様の風采《ふうさい》をして、ことには女にも見まほしいところの青年の美男子であるところに、彼等の軽侮のつけ[#「つけ」に傍点]目がある。そうして見廻したところ、相手は一人であるのに、自分たちは血をすすった一味徒党でかたまっている。こいつ[#「こいつ」に傍点]一人を袋だたきにして、海の中へたたき込むには、何の雑作《ぞうさ》もないと思ったから、多少、事を分けるはずの貸元も、中盆《なかぼん》も、気が荒くなって、
「何がどうしたんだって――人の楽しみにケチをつける奴は殴《なぐ》っちまえ」
「殴っちまえ」
風雲実に急です。駒井もこうなっては引込めない……かえすがえすも、米友ならば面白いが、駒井では痛ましい。
その時、帆柱のかげからムックリとはね起きた六尺ゆたかの壮漢、
「こいつら、ふざけや[#「ふざけや」に傍点]がって……」
盆ゴザも、場銭も、火鉢も、煙草も、手あたり次第に取って海へ投げ込む大荒《おおあ》れの勇者が現われました。
七
これほどの勇者が、今までどこに隠れていたか、駒井も気がつかなかったが、乗組みの者、誰も気がついていなかったようです。
不意に飛び出したこの六尺豊かの壮漢が、痛快というよりは乱暴極まる荒《あ》れ方をして、あっというまもなく、賭場《とば》を根柢から覆《くつが》えしてしまいました。
さしもの遊民どもが手出しができないのみならず、あいた口がふさが[#「ふさが」に傍点]らないのは、その荒《あ》れっぷりの乱暴と迅速とのみならず、六尺豊かの髯面《ひげづら》の大男の、威勢そのものに呑まれてしまったからです。
といってこの六尺豊かの髯面の大男、そのものの人体《にんてい》がまた甚だ疑問で、相手を向うに廻して荒れていなければ、これが無頼漢《ぶらいかん》の仲間の兄貴株であろうと見るに相違ない。そうでなければ、船頭仲間の持余し者と見たであろう。しかし、よく見ると、無頼漢でもなければ、船頭仲間の持余し者でもない、れっき[#「れっき」に傍点]としたこの乗合船のお客様の一人で、身なりこそ無頼漢まがいの粗野な風采をしているが、寝ていたところをよくごらんなさい、両刀が置きっぱなしにしてあるのです。しかもその長い方の刀は、人の目をおどろかすほどすぐれて長いものです。
それですから、さしもの遊民どもも、一層おそれをなしました。
「人の安眠を妨害する奴等、船底へ引込んで神妙にしとれ[#「しとれ」に傍点]」
中盆と壺振の二人の襟首をひっぱって、船底の方へ投げ込んでしまったのは、あながち怪力というわけではない、呑まれてしまった遊民どもが、自由自在になっているのです。
そこで、さしも全権を振《ふる》っていたこの連中が、一時に閉塞《へいそく》して、ことごとく船の底へ下積みにされてしまいました。
船中の者も、この勇者を欽仰《きんこう》することは一方《ひとかた》ではありません。
その勇気といい、筋骨といい、身に帯びたすばらしい長短の刀といい、天下無敵の兵法《ひょうほう》の達者、誰が見ても疑う余地はありません。最初の口火を切った駒井甚三郎の影は、この勇者の前に隠されて、一人もそれを讃仰《さんごう》するものはないのです。
駒井もまた、この豪傑が不意に現われて、自分の解決すべき難関を、一気に解決してくれた幸運をよろこびましたから、讃仰者のないのを恨みとする理由はありません。こういう場合においては、第一声を切ることが勇者の仕事で、その出端《でばな》を利用して敵を驚かして、一気に取挫《とりひし》ぐことは、喧嘩の気合を知っているものにはむしろ容易《たやす》いことですが、駒井は閑却されて、あとから出た豪傑が人気を独占しましたけれど、駒井にとっては不足どころではありません。
こうして一時無頼漢どもに占領されていた船の甲板は、再び良民の天下となって、乗合船そのものの平和な光景が回復されました。
駒井能登守は思いました。これはこれ一場の喜劇のようなものだが、一代の風潮もこの通りで、進んで身を挺するの勇者さえ現わるれば、悪風を退治するのはむしろ容易《たやす》いことで、悪は本来退治せられるがために存在するものであるのに、怯懦《きょうだ》な人間が、それにこわもて[#「こわもて」に傍点]をして触ろうとしないから、彼等が跋扈《ばっこ》するのだ……本当の勇者が一人出づれば一国がおこる、というようなところまで考えさせられました。
ただ、ここに現われた勇者は、体格の屈強なるに似ず、勇気の凜々《りんりん》たるに似ず、ドコかに多少の愛嬌と和気がある。駒井甚三郎はともかくもお礼の心を述べておこうと、彼に近づいて、慇懃《いんぎん》に、
「どうも御苦労さまでした……失礼ながら、あなたは何とおっしゃいますか、そうして何の目的で対岸《あちら》へお渡りになるのですか」
駒井から慇懃に尋ねられた六尺豊かの壮漢は、
「は、は、は、拙者は絵師ですよ、足利《あしかが》の田山白雲といって、田舎《いなか》廻りの絵描きですよ」
駒井甚三郎も、この返答には、いささか面喰《めんくら》いました。
誰もが天下無敵の勇者であるように思い、またそう思われても、さしつかえないほどの体格と力量を持ち、今やこの船中では、偶像的にまで渇仰《かつごう》されようとしているその御本人が、「おれは絵師だ……しかも田舎まわりの絵描きだ」と淡泊にぶちまけてしまった気取らない純一さを、駒井は微笑せずにはいられませんでした。さいぜんの蛮勇は真似《まね》ができても、この淡泊は真似ができないと感じました。
そこで、駒井甚三郎と田山白雲との、うちとけた談話がはじまります。
田山白雲は、今の画界の現状と、その弊風とを語りました。
「あの書画会というやつ、あれがいけないんです……柳橋の万八で、たいてい春秋二季にやりますな、あれが先輩を傲《おご》らしめ、後進を毒するのです。それとても、書画会が悪いのではない、書画会をそういう機関にした組織そのものが誤ってるんでしょうな。あなたも、万八の書画会へはおいでになったことがありましょう」
「ありません」
「それは話せない、一度はごらんになってお置きになるがよろしい、あれは新進の画家には登竜門になるのですから、あの別席へ陳列されるということは、画家にとってはなかなかの光栄なのですから、若い人たちが勉強します……勉強して、なかなかいいものを作ることがあります、その点だけは画界のためになりますが……」
と、いいながら田山白雲は、そのすぐれて長い刀をいじくりまわすところは、どう見ても塙団右衛門《ばんだんえもん》といったような形で、いやしくも絵筆をとるほどの人とは見えません。しかし、その話しぶりは、時弊を論じても、一概に意地悪くならないところに、やはり風流人らしい一面はあるようです。
「それからがいけないのです、自分の努力を、正直に人に見せている分には難はないのですがね……そのうちに、人の物を審査してみたくなる、これが間違いのもとです。二三回いいのを見せてくれたなと思っているうちに、いつのまにか大家になって、人の物の審査をやり出すのです、そうして後進に訓示をするような口吻《こうふん》を弄《ろう》するんですからいけませんや……それではトテも大物は出ませんね」
「そうでしょう、好んで人の師となるのはよくないことです」
と駒井が軽く相槌《あいづち》を打ちました。白雲は慨然として、
「そこへいくと……浮世絵師とはいいながら、葛飾北斎《かつしかほくさい》はエライところがありましたよ。あの男は相当に名を成した時分にも、書画会へ出るには出ましたがね、雨の降る時などは蓑笠《みのかさ》で、ハイ葛飾の百姓がまいりましたよ、といって末席でコクメイ[#「コクメイ」に傍点]に描いていたものです。年はたしか九十で死にましたかな。死ぬ前も、天われにもう十年の歳をかせば本物が描ける、どうしてもいけなければ、もう五年、といって死んだというのは本当でしょう。おれには猫一匹も描けない、描けないと、絶えず妹に訴えていたというのも、嘘ではあるまい……」
それから白雲は、当代の画家にはこの己《おの》れを責むる心がなく、社会に真の画家を養成する大量のないことを説き、天然の名勝や、善良な美風が破壊される時に、腹を立てる美術家はないが、舶来の裸物《はだかもの》に指でもさすと、ムキになって怒り出す滑稽を笑い、我が国の古来の大美術はもちろん――近代になって、東州斎写楽《とうしゅうさいしゃらく》の如きでも、その特色を外国人から教えられなければわからないでいる。自分をわすれるにも程のあったものだというようなことを論じているうちに、船が木更津《きさらづ》へ着きました。
ここで、こそこそと例の遊民どもは上陸し、乗客の大部分も下船しましたが、この二人は船の上に留《とど》まったまま、談論に耽《ふけ》っているのです。
聞くところによると田山白雲は、保田《ほた》から上陸して房総をめぐり、主として太平洋の波を写生して帰るのだそうです。
白雲のいうところによると、古来、日本の画家で、水を描いて応挙《おうきょ》の右に出づるものはないが、まだ大洋の水を写したのを見ない、房総の鼻をめぐって見ろと人から勧められたままに、出て来たのだということです。房総の海は自分に何を教えるか知らないといっている。
駒井は、自分の仮住居《かりずまい》、洲崎《すのさき》の番所の位置をよく説明して、行程のうち、ぜひ足をとどめるようにとのことを勧め、田山は喜んでそれを請け入れました。
「わしは、こうして歩いていると、誰も画家とは見てくれないで困りますよ。いや困りはしません、結局、それが幸いになることもあるのです……そうです、十人が十人、拙者を武芸者だと睨《にら》んでかかるのですな。それが都合のよいこともありますが、滑稽を引起すことも珍しくはない。いや、武術も少しやるにはやりました。拙者の藩は小藩ですからな、僅かに一万石の小藩ですから、家老上席になったところで九十石の身分です。しかし、武術は好きで、ずいぶんやるにはやりましたよ、自慢ではないが、まあ、大抵の喧嘩には負けません。武術も好きでしたが、絵も好きでした。子供の時分、拙者は江戸で生れました。浅草の観世音へ行っては、あの掛額をながめて、絵をかいたものです、あれが拙者の最初の絵のお手本です。文晁《ぶんちょう》のところへも、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と行きました。ありゃ俗物です、俗物ですけれども、一流の親分肌のところもありましたね……絵の本当の師匠は古人にあるのです、古人よりも山水そのものですな。雪舟もいいましたね、大明国《だいみんこく》にわが師とすべき画はない、山水のみが師だ……と。要するに写生です、一も二も写生ですよ……しかし、この写生観は応挙のそれとは性質を異にしているかも知れませんが、写生はすなわち自然で、自然より大いなる産物はありませんからな――いけません、西洋の山水画というものも、うす
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