はないか。まして、お雪ちゃんにおいてをや。
 同時に閃《ひら》めいたのは……閃めかなければならないのは、過ぐる夜のことで、山窩《さんか》のものだという悪漢が二人、この寺に押込んで、泊り合わせた兵馬のために傷つけられて逃げた、それが町の外《はず》れの火の見櫓の下でおおかみ[#「おおかみ」に傍点]に食われて死んでいた、罰《ばち》はテキ面だと人をして思わしめたのは、遠くもない先つ頃[#「先つ頃」に傍点]のことで、その当座は――今でも、誰も狼に食われたものと信じて疑わない。事実また狼に食われたものに相違ないが、当時、駈けつけて親しく検視をやってみた兵馬だけは、単に狼に食われただけで済ますことはできなかった。けれども、あの場合、狼に食われたことに一切を解決してしまった方が、民心を安んずる上において都合がよかったので、兵馬もこれをこばまなかった。しかしあれは、食われたのは後で、斬られたのが先である。一刀のもとに斬って捨てた手練のほどに戦《おのの》いたのは――戦くだけの素養のあったのは、たしか兵馬一人であったはず。
 これほどの斬り手がどこにひそ[#「ひそ」に傍点]んでいたか。これは今以て兵馬には解決がついていないところへ……見せられたこの刀が、激しい暗示を与える。
「誰がこの刀を持っていましたか?」
「それは、わたくしから、あなたにたずねているのです」
「いや、私にはわかりませぬ、あなたにお尋ねしなければなりません。あなたはこの刀の持主を尋ねて、この寺へおいでになったのですか、その人は、何という人で、何のためにこちらへ来たのですか」
「それは人を殺すことを何とも思わない人です……ですけれども、わたしはその人が忘れられないのです」
「あなたのおっしゃることがよくわかりませぬ」
「それでは、もう一つ付け加えましょう、その人は目の見えない人です……どういう縁故でこの寺へ参りましたかは存じませぬが、今はこの寺にはいませんそうで……温泉へ行ってしまったそうです」
「まだわかりませぬ、もう少しお聞かせ下さいまし」
 話が、それから進むと、お銀様は、ついに兵馬に向って、
「机竜之助」
の名を語らねばならなくなりました。そうでなくてさえ一語一語に、何かの暗示を強《し》いられていた兵馬は、最後に「机竜之助」の名を聞いて、ながめていた白刃を伝って、強烈な電気に打たれたように振い立ちました。
「あ、それだ、その人ならば、あなたが尋ねる人ではない……」
 兵馬の昂奮がお銀様を驚かしたのみならず、あわただしく刀を鞘《さや》に納めて、投げ出した行李《こうり》を再びひきまとめて、
「私は、あなたと共に、その温泉へ行かなければならぬ、その温泉とはどこですか」
 兵馬が最初の当途《あてど》もない甲武信の山入りを放擲《ほうてき》したのと、お銀様と共に、その未だ知られざる温泉へ、発足しようと思い立ったのとは同時です。
 ここに運命の極めて奇なる因縁で、宇津木兵馬とお銀様とは、その翌日、行を共にして尋ね人のあとを追うことになりました。
 温泉の名をハッコツとだけは、知ることができましたが、そのハッコツとはどこ。それは誰に聞いても要領を得ることができませんでした。
 今ならばハッコツの音《おん》から解いて、白骨《しらほね》の字をさぐるのはなんでもないことですけれども、その当時にあって、日本人の一人も、日本アルプスの名を知らないように、信濃《しなの》と飛騨《ひだ》の境なる白骨温泉《しらほねおんせん》の名は、誰の耳にも熟してはおりませんでした。
 ともかくも、温泉として聞えたる信濃の国、諏訪の地名から推《お》して、多分それに近くとも遠くはない地点だろうとの二人の想像は、さのみ無理ではありません。そこで二人は、まず諏訪の温泉を目標として、探索の歩を進めることに相談をきめました。
 欲望を異にして、目的を同じうするこの悪戯《あくぎ》に似たるほどの奇妙な道連れは、単に道連れとしてはおたがいに頼もしいものでありました。なぜならば、お銀様は長途の旅に、兵馬ほどの護衛者を得たわけであり、兵馬はまた今の最も欠乏している路用の上に、最も有力なる後援者を得たということになるのです。事実、お銀様はこの時もまだ多分の金を懐中に入れてありました。なお、これから諏訪の方面へ向けて旅立ちの途中、故郷の有野村へでも手を入れようものなら、自分の所有のうちから、誰にもはばからずに、ほとんど無限の融通をつけるのは何でもないことです。
 お銀様は今も、持てる金のすべては兵馬に附託して、これで旅の用意の万事をととのえるように、そうして乗物も二人分、通しを頼んでもらいたいということをいいました。
 しかし兵馬は、お銀様だけは都合のよい乗物で、自分はドコまでもそれに附添うて、徒歩で行こうと決心をきめて、それによって旅行の準備を進めてしまいました。
 兵馬は計らずして、敵《かたき》の行方《ゆくえ》に一縷《いちる》の光明を認めたと共に、思い設けぬ富有の身となりました。附託されたかなりの大金は、いやでも自分が保管するのが義務のようになっている。この奇怪にしてしかも鷹揚《おうよう》なお嬢様は、今後必要に応じて、いくらでも兵馬のために、支出することを辞せない様子を見せている。
 あてどもない山奥に、半ば自暴《やけ》の身を埋めに行こうと決心した兵馬は、ここにゆくり[#「ゆくり」に傍点]なく、幸運の神に見舞われたようなもので、暫く茫然《ぼうぜん》と夢みる心地でいましたが、若いだけに早くも心に勇みが出て、踏みしめる足許もなんとなく浮き立つように感じ、ほとんどこの何年来にもなかったよろこび[#「よろこび」に傍点]に、心が跳《おど》るのであります。
 そうかといって、この世に代価を払わない幸運というものは一つもない。兵馬にこの幸運を与えた祝福の神は、人の子を取って食う鬼子母《きしも》の神であってみれば、早晩何かの代価を要求せられずしては済むまいと想われる。

         六

 駒井甚三郎は、房州の洲崎《すのさき》に帰るべく、木更津船《きさらづぶね》に乗込みました。
 その昔お角が、清澄の茂太郎を買込みに行く時に乗込んで、大難に遭《あ》ったのとおなじ航路で、おなじ性質の乗合船。
 なるべく人目に立たないように、駒井は帆柱のうしろ、荷物の隅に隠れていました。
 乗合の客は、例のとおなじように、士分階級をのぞいた農工商のものと、今日は、それ以外の遊民が少なからず乗合わせている。
 遊民というのは、玄冶店《げんやだな》の芝居に出てくるような種類の人。赤間の源左衛門もいれば、切られない[#「ない」に傍点]の与三《よさ》もいる。お富を一段上へ行ったようなお角がいないのが物足りない。
 しかし、きょうは、天気も申し分なく、近き将来の時間において、思い設けぬ天候の異変もこれあるまじく、たとえ、お角が乗合わせていたからとて、人身御供《ひとみごくう》に上げられる心配もまずありそうなことはなく――そうそうあられてはたまらない――それで江戸湾内を立ち出でる木更津船の形は、広重《ひろしげ》に描かせて版画にしておきたいほど、のどかなものです。
 隠れているといっても、なにしろ限りある木更津船の甲板の上で、書物を開いている駒井甚三郎の耳には、乗合船特有の世間話が、連続して流れ込んで来るのを防ぐことはできない。ある時は耳を傾けて、これに興を催してみたり、ある時は書物に念を入れて、それを聞き流したりしているうちに、こまったことには、例の遊民の連中がいつか気を揃えて、いたずら[#「いたずら」に傍点]を始めてしまったことです。
「半方《はんかた》が二十両あまる、ないか、ないか」
と中盆《なかぼん》が叫び出すと、
「おい、音公、お前に五本行ったぞ」
 貸元が念を押す。
「合点《がってん》だ」
 向う鉢巻が返答する。
「六三に四六を負けるぞ、負けるぞ」
と中盆が甲高声《かんだかごえ》で呼び立てると、
「はぐり[#「はぐり」に傍点]をうっちゃれよ、打棄《うっちゃ》れよ」
と片肌脱《かたはだぬぎ》がせき立てる。
「一番さい[#「さい」に傍点]てくれ、さい[#「さい」に傍点]てくれ」
 鳴海《なるみ》の襦袢《じゅばん》が居催促をする。
「金公、それ三本……ええ、こっちの旦那、お前さんは十本でしたね」
 貸元は盛んにコマ[#「コマ」に傍点]を売る。
「いいかげんに、やすめ[#「やすめ」に傍点]を売れやい」
「勝負、勝負……」
 駒井甚三郎も、これには弱りました。
 この連中も最初のうちは、やや控え目にしていたのが、ようやく調子づいて来ると、四方《あたり》に遠慮がない。諸肌脱《もろはだぬぎ》になった壺振役《つぼふりやく》が、手ぐすね引いていると、声目《こえめ》を見る中盆《なかぼん》の目が据わる。ぐるわの連中が固唾《かたず》を呑んで、鳴りを静めてみたり、またけたた[#「けたた」に傍点]ましくはしゃ[#「はしゃ」に傍点]ぎ出したりする。
 こうなっては隠れていることも、書物を読むこともめちゃめちゃです。駒井は一方ならぬ迷惑で、避難の場所を求めようとしたが、やはりかぎりある船中に、人と荷物でなかなかそのところがない。ひとり駒井が迷惑しているのみならず、乗合いの善良な客はみな迷惑しているのです。しかし、善良な客が進んで船内の平和を主張するには、どうも相手が悪過ぎる――船頭でさえ文句が附けられないのだから、暫く、無理を通して道理をひっこめておくより思案がないらしい。
 駒井甚三郎とても、相手をきらわないというかぎりはない。見て見ないふり[#「ふり」に傍点]のできるかぎりは、立ち入りたくない。しかし、この船中で見渡したところ、かりにも士分の列につらなっている身分のものは、自分のほかにはいないらしい。万一の場合、義において自分が、船内の平和を保つ役目を引受けなければならないのか、とそれが心がかりになりました。その時分、勝負がついたと見えて、船の上はひっくりかえるほどの騒ぎです。
 こういう場合の役まわりは、宇治山田の米友ならば適任かも知れないが、駒井甚三郎ではあまりに痛々しい。
 それを知らないで、調子づいた遊民どもは、全船をわが物顔に熱興している。
 彼等が、熱興だけならば、まだ我慢もできるが、船中の心あるものを迷惑がらせるのみならず、その善良な分子をも、この不良戯《ふりょうぎ》のうちへ引込まずにはおかないのが危険千万です。
 いわゆる良民のうちにも、下地《したじ》が好きで、意志がさのみ強くないものもあります。見ているうちに乗気になって、鋸山《のこぎりやま》へ石を仕切《しきり》に行く資本《もとで》を投げ出すものがないとはかぎらない。くろうと[#「くろうと」に傍点]の遊民どもも、実はそのわな[#「わな」に傍点]を仕掛けて待っている。
「へ、へ、へ、丁半は采《さい》コロにかぎるて、なぐささい[#「なぐささい」に傍点]、じゃあるめえな」
「じょうだんいいなさんな」
「五貫ばかり売ってもらいてえ」
 罷《まか》り出でたのは乗合いの中の素人《しろうと》にしては黒っぽく、黒人《くろうと》にしては人がよすぎる五十男。
「合点《がってん》だ、さあ五貫……」
 貸元が景気よくコマを売る。
「丁が余る、丁が余る……いかがです、旦那、負けときますぜ、やすめ[#「やすめ」に傍点]を一つお買いになっては……」
「へ、へ、へ」
 前のよりはいっそう人のよかりそうな、純乎《じゅんこ》たる素人が、ワナを眼の前につきつけられて、まんざらでもない心持。
 こうやって彼等の景気は増すばかりで、心あるものの気持は苦々《にがにが》しくなるばかりです。
 暫くしている間に、最初にしたり[#「したり」に傍点]面《がお》をして出た半黒人《はんくろうと》も、まんざら[#「まんざら」に傍点]でもない心持の純素人《じゅんしろうと》も、グルグルとグループの中へ捲き込まれてしまうと、中盆《なかぼん》が得意になって、
「運賦天賦《うんぷてんぷ》のものですから、本職だって勝つときまったものではなし、ドコへ福がぶっつ[#「ぶっつ」に傍点]かるかわ
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