ならないのです。つまり、お賽銭箱の前で拝もうと、鳥居の前で拝もうと、また自宅の神棚へ招じて拝もうと、誠心に変りがなければよいものだという理窟を、道庵が排斥しながら説き明《あか》してくれないものだから、迷います。
道庵はそれを相変らずいい気持で、
「は、は、は、は、は……」
と高笑いしたのは、本気の沙汰だか、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]ているのだかわかりません。
しかし、米友としては道庵を信じ、今までとても、気狂《きちが》いじみたところに、あとでなるほどと思わせられたり、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]きったのが存外、まじめであったりしたことを、いつもあとで発見させられるものですから、これにも何か相当のよりどころがあるので、それはあとでおのずから教えられることだろうと、押返してたずねなかったのは、つまり米友もそれだけ修行が積んだものでしょう。
凡庸《ぼんよう》なる科学者を名画の前へ連れて行くと、心得たりとばかりに画面へ顔を摺《す》りつけながら、天文学で使用するような拡大鏡を取り出して両眼に当て、画面の隅々隈々《すみずみくまぐま》までも熱心に見つめる。そうしていう。この線とこの線の間は何
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