それだ、その人ならば、あなたが尋ねる人ではない……」
 兵馬の昂奮がお銀様を驚かしたのみならず、あわただしく刀を鞘《さや》に納めて、投げ出した行李《こうり》を再びひきまとめて、
「私は、あなたと共に、その温泉へ行かなければならぬ、その温泉とはどこですか」
 兵馬が最初の当途《あてど》もない甲武信の山入りを放擲《ほうてき》したのと、お銀様と共に、その未だ知られざる温泉へ、発足しようと思い立ったのとは同時です。
 ここに運命の極めて奇なる因縁で、宇津木兵馬とお銀様とは、その翌日、行を共にして尋ね人のあとを追うことになりました。
 温泉の名をハッコツとだけは、知ることができましたが、そのハッコツとはどこ。それは誰に聞いても要領を得ることができませんでした。
 今ならばハッコツの音《おん》から解いて、白骨《しらほね》の字をさぐるのはなんでもないことですけれども、その当時にあって、日本人の一人も、日本アルプスの名を知らないように、信濃《しなの》と飛騨《ひだ》の境なる白骨温泉《しらほねおんせん》の名は、誰の耳にも熟してはおりませんでした。
 ともかくも、温泉として聞えたる信濃の国、諏訪の地名から推
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