、持ったりしなければ、この社会が成り立つものでないということを、道庵先生がこのごろ思いつきました。
といって、畏れというのは、サーベルや、鉄砲で脅《おどか》すことではない。権柄《けんぺい》ずくで人民を圧制することでもない。神ほとけを信仰して、畏れる心がほんとうに起らなければならないということに、道庵先生が気がつきました。
「べらぼう様、神様ほとけ様が無《ね》えなんというやつがあるものか、お天道様や水は誰がめぐんでくれたんだ、人間が神様をまつるのは、勿体《もってえ》ねえという心の現われなんだ、勿体ねえという心を持たねえ奴は物を粗末にする、物を粗末にする奴は人間を粗末にする、人間を粗末にする奴は国を粗末にする、国を粗末にする奴が、神様を粗末にするんだ」
道庵一流の論法でおしきったはいいが、この案が通過すると共に、路傍の稲荷《いなり》や荒神様《こうじんさま》にまで、いちいち幣帛《へいはく》を奉って行くから、その手数のかかること。気の短い同行の米友がかなりの迷惑です。それでもいちいち道庵並みに、神という神にはみな拝礼を遂げて、武州|熊谷《くまがや》の宿へ入りました。
ここでは規定の神社参
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