、それもお気をつけなさいませ」
 しかしながら、それがために、いまさら思い止まるべきものではありません。
 久助だけが徒歩で、お雪と、竜之助は馬に乗り、他の一頭には、米とその他の荷物をつけて、松本をゆっくりと立ち、野麦《のむぎ》街道を島々の村まで来て早くも一泊。
 翌日早朝にここを立って、島々の南谷を分け入りました。
 島々では、案内者がこういうのを聞きました、
「山地は秋の来るのが早いですからね。左様でございます、穂高の初雪は九月のうちに参りますよ。八月の末になりますと、徳本峠《とくごうとうげ》の頂あたりが真赤になって、九月の上旬になりますと、神河内《かみこうち》のもみじ[#「もみじ」に傍点]がととのって参ります。ごらんなさい、この辺も、もう青と紅とがとりどりで、錦のようになってしまいました。これが十月になると、焼ヶ岳も真白になってしまいます。けれども、まだこの道が通えないということはございませんが、十一月になりましては、もういけません」
 とにかくに馬を進ませて行くに従って、秋の色は深くなってゆくばかりです。
「まあいいわ……」
 五彩絢爛《ごさいけんらん》として眼を奪う風景を、正直にいちいち応接して、酔わされたような咏嘆《えいたん》をつづけているのはお雪ちゃんばかりで、久助は馬方と山方《やまかた》の話に余念がなく、竜之助は木の小枝を取って、折々あたりを払うのは、虫を逐《お》うのかも知れません。
「大きな山……」
 檜峠のおり道で、お雪が眼をあげてながめたのは硫黄《いおう》ヶ岳《たけ》です。
「いつも地獄のように火をふいている焼ヶ岳というものが、あの向うにありますよ」
 久助が説明しました。
 五彩絢爛たる島々谷の風光の美にうたれたお雪は、風相|鬼《おに》の如き焼ヶ岳をながめて、はじめて多少の恐怖に打たれました。
「火を吹いているんですか?」
「あれごらんなさい、あのむらむらしているのは雲じゃありません、みんな山からふき出した煙ですよ。焼ヶ岳の頭は、人間ならば髪の毛が蛇になってのぼるように、幾筋も幾筋もの煙が巻きのぼっています」
「そうして、白骨《しらほね》のお湯はその下にあるのですか」

 やがて白骨の温泉場に着いて、顧みて小梨平《こきなしだいら》をながめた時は、お雪もその明媚《めいび》な風景によって、さきほどの恐怖が消えてしまいました。
 もう、客はおおかた引いていますから、この一行は、存分に広い座敷を占領することができ、どっしり[#「どっしり」に傍点]と落着いて、ほとんど[#「ほとんど」に傍点]わが家へ帰った心になりました。
 ことに、竜之助はここへ着くと、まず第一に、「これから充分眠れる」という感じで安心しました。
 これから思う存分に眠るのだ、大地のくぼむほど寝つくのだ、という慾望が何よりも先にこの人の心に起ったのは、今まで身を労することは少なかったとはいえ、その生涯は、ほとんど[#「ほとんど」に傍点]波に任せてただようと同じことの生涯で、夜半夢破れた時は、いつも枕の下に波の声を聞かぬこととてはない。聞くところによれば、ここは飛騨と信濃の境、晩秋より初春まで、住む人もなき家を釘づけにして里へ帰るのだと。恰《あたか》もよし、これからようやくその無人の冬が来るのである。三冬の間をじっくり[#「じっくり」に傍点]と落着いて、ここで飽くまで眠り通すに何の妨げがある。
 竜之助は、その以前は眠ることを怖れたものです。眠ることを怖れたのではない、眠って夢を見ることを怖れましたが、今はそうではありません。
 このごろになって、はじめて夢を見ることの快楽が、少しずつ身にしみて来たようです。
 四境|閑《かん》にして呼吸の蜜よりも甘い時、恍惚《こうこつ》として夢路に迷い入るの快味を味わうものにとっては、この世の歓楽などは物の数ではないとのこと。
 またいう、夢の三昧《さんまい》に入る人は、必ずしも眠ってのみ夢を見るのではない、身を横にして眼をとざせば、雲煙がおのずからにして直前に飛び、神仙が脱化《だつげ》して人間界に下りて来るとのこと。
 今、竜之助は、夢みることに新しい生活を見出し得たかのように夢みていると、お雪が、竜之助の枕もとへ、本を二三冊たずさえてやって来て、
「先生、お退屈でしょう、本を読んでお聞かせしましょうか」
「どうぞ」
と竜之助が夢を現実に振向けると、お雪が、
「王昭君物語という本ですよ。王昭君、御存じでしょう、支那の美人……」
と言って、その本を竜之助の前、行燈《あんどん》の下でくりひろげました。
 お雪は本を読むことが、なかなか達者です。これは支那の物語を、だれか日本文に作り直した物語です。けれどもお雪は、その中に挟まれている漢文や、漢詩まで、苦もなく読みくだくので、竜之助がおどろいているくらいです。お雪にな
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