鼓と聞いておられないことが、まもなく起りました。
ある日、由緒《ゆいしょ》ありげな数人のものが、不意にこの猟師小屋へ押しかけて来て、食糧品と猟の獲物《えもの》があらば、残らず買ってやるとのことです。
勘八は驚き呆《あき》れて、取蓄えてあった食物と獲物をそっくり提供すると、この連中はよろこんで、勘八に黄金《おうごん》二枚を与えて行きました。
「小判二枚!」
勘八は、これはニセ物ではないか、あるいは時間がたてば木の葉に変ってしまうのではないかとさえ疑いました。勘八にとっては臍《へそ》の緒《お》切って以来、少なくとも黄金二枚を手にしたことは初めてでありますから、一時は疑ってみましたが、正真のものであることを信じてみると、うれしくてたまりません。
こうなった以上は、何も命がけで猪《しし》を追い廻している必要はないと考えましたから、勘八は小屋をほどよく始末して、鉄砲をさげてさと[#「さと」に傍点]へ帰って、とうぶん骨休めをすることにきめました。
帰る途中、谷間の小流れのところへ来て見ると、何か落ちている。
近づいて見ると意外にも、それは角《つの》が生えて青隈《あおくま》の入った木彫の面《めん》、俗に般若《はんにゃ》の面と称するものでしたから、手に取り上げて勘八はおどろきました。思いがけないところに、思いがけないものが落ちていた。しかし、子供へのみやげには何よりだと、手に取り上げて見ると、ゾッとするほどのものすごさを感じました。
これは作《さく》のいいせいだ――と勘八もなんとなくそう思って、つくづくながめると、いよいよすごくなってくるので、これはトテモ[#「トテモ」に傍点]子供のおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]には向かないわいと思いました。とにかく、捨てておくよりは、ひろって帰ったところで、誰も咎《とが》めるものはなかろう……と勘八はそれを大事に持って帰って、とりあえず月見寺へ立寄りました。
そうして般若の面《めん》をひろって来たと大声で披露すると、どこにいるのだか、暗いところから弁信の声で、
「勘八さん……般若の面をおひろいなさいましたか、それは結構でございます。般若とは六波羅蜜《ろくはらみつ》の最後の知恵と申すことで、この上もなく尊《たっと》い言葉でございますそうですが、それが、どうして恐怖と嫉妬を現わす鬼女《きじょ》の面の名となりましたか、不思議な因縁でございます」
弁信が暗いところで、こんなことをいい出したものですから、勘八は気味が悪くなりました。実はさいぜんとても、面に現われた鬼女の妬相《とそう》にゾッ[#「ゾッ」に傍点]とするほどおそろしさを見せられていたのに、そこへまた弁信が、何かむずかしい因縁を説き出したものでありますから、勘八は無意識に気味が悪くなり、自分は黄金二枚で果報が充分だ、よけいな面を持って帰って、せっかくの果報が祟《たた》りに変っては災難だと思ったものですから、ではこの面はお寺へおさめてまいりましょうといって、そこに置いて、わが家へ帰ってしまいました。
十三
塩尻から五千石通りの近道を、松本の城下にはいって、机竜之助と、お雪ちゃんと、久助の一行は、わざと松本の城下へは泊らずに、城下から少し離れた浅間の湯に泊り、そこで一時の旅の疲れを休め、馬をやとい、食糧を用意して、島々谷《しまじまだに》の道を分け入ることになりました。
浅間を立つ時に、宿で誰かが久助に向って、こんなことをいうのを、竜之助は耳に留めておりました、
「おやおや、白骨《しらほね》までおいでになるのですか、これから、この寒《かん》に向おうとする時分に……それはそれは大変なことでございます、あちらでは追々《おいおい》、お湯をとざして、大野や松本へ出てまいりまする時分に、あなた方はあちらへおいでになる……そうして冬籠《ふゆごも》りをなさる、いやそれほどの御辛抱がおありになれば、いかなる難病でもなおらぬということはございますまいが……それにしても、まあ、途中だけでも容易なものではございませんよ……いっそ、この浅間の温泉で御養生をなすったらいかがでございますか。それは、お湯はとうてい白骨ほどのきき目はないかも知れませんが、第一、ここにおいでになれば御城下は近し、四時、人の絶えたことはございませんから、心配というものが更にありません。あの、奥信濃の飛騨の国との境、白骨の温泉で冬籠りをなさるというのは、ずいぶん冒険でございます、それはできないことはございますまいが……雪が降り積って、山も、谷も、埋めた時は、全く人間界を離れてしまいますからな、御用意に如才《じょさい》もございますまいが、食物から寒さをしのぐ用意まで、念をお入れになりませんと……それと雪の降る日などは、飢えに迫って猛獣が、人のにおいをかぎつけてまいりますから
前へ
次へ
全81ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング