離れた内談だから、中央の高談放言に消されて、その話がよく聞えない。ややあって神楽師《かぐらし》の長老が、
「では、貴殿、ともかく高村卿におあいくだされよ、今明日あたり当地へおつきのはずでござる」
という声だけがよく聞えました。
 その晩、薩摩屋敷へまた数名の新来の客がありました。そのいでたち[#「いでたち」に傍点]はみな先日のお神楽師の連中と同じことでありましたが、なかに一人、弱冠の貴公子がいたことを、邸について後の周囲のもてなし[#「もてなし」に傍点]と、笠を取って面《おもて》を現わした時に初めて知りました。
 翌朝になって見ると、この貴公子は上壇の間に、赤地の錦の直垂《ひたたれ》を着て、髪は平紐で後ろへたれ、目のさめるほどの公達《きんだち》ぶりで座をかまえておりましたが、やがて、その周囲へ集まったこの屋敷の頭株が、みな臣従するほどに丁寧に扱っているのが不思議で、
「そちたち、わしは飛騨の国を取りたいと思うて、そちたちを頼みに来たのじゃ、助力してたもるまいか」
 猫の児をもらいに来たような頼みぶりでこういいましたから、豪傑連中も度胆《どぎも》を抜かれたようです。
 その時に例の南条力が少しく膝を進ませて、
「その儀につきましては、昨日池田殿より一応のお話をうけたまわりましたが、飛騨の国を御所望は、まずおやめになった方がよろしかろうと心得まする」
「何故に?」
 そこで南条力は、昨日お神楽師の長老と内談的に議論をたたかわしたその要領を、再び貴公子の前でくりかえして、結局、飛騨を取るよりも、甲州を略するのが急務だという意見を述べると、それを聞き終った貴公子――昨晩、池田なるものはその名をたしか高村卿と呼びました、
「そちたちは江戸を基《もと》にして考えるからそうなるのじゃ、京都を根本として計略を立てる時には、甲斐を取るよりも飛騨を定むるのが先じゃわい。そちたちが心を揃《そろ》えて助力をしてくりゃるならば、飛騨を取ることは何の雑作もないことじゃ、甲州を定むるのは、その後でよろしい」
 弱冠なる貴公子が取って動かない気象のほど、侮り難いと見て、相良《さがら》総蔵が代って答えました、
「仰せではございますが、われわれの今の目的は、関東を主と致します、飛騨の方面まで手の届きかねる実際は、御逗留の上、したしく御覧あそばせばおわかりになると存じまする」
「うむ。そうして、この屋敷にはただいま、何人の人がいますか」
「都合五百人には過ぎませぬ」
「しからば、そのうち三百人を、わしに貸してたもらぬか」
 豪傑が沈黙してしまいました。かねて高村卿は豁達《かったつ》なお方とは聞いていたが、なるほどその通りだと思ったのでしょう。それと同時に実際、公卿《くげ》さんの中にも豪《えら》い気象の人がいると、舌を捲いたのかも知れません。
 十津川《とつがわ》の時の中山卿、朔平門外《さくへいもんがい》で暗殺された姉小路卿、洛北《らくほく》の岩倉卿、それらは慥《たしか》に公卿さんには珍しい豪胆な人に違いないが、この高村卿の突拍子には格別驚かされる。
 もし、かりにここから三百名の浪士を借り受けたところで、それに伴う兵器食糧はどうするつもりだろう。もしまた仮りに、飛騨《ひだ》の国を乗っ取ってみたところで、それを守る者、或いは後詰《ごづめ》の頼みはどうなるのか、その辺の計画は一向にないらしい。ないところが、またこの人たちの無性《むしょう》に愛すべきところかも知れない。
 豪傑連は、この豪胆な貴公子の意気を喜びましたけれども、その豪胆通りに実際が行われるものでないことを、懇々と説諭しなければならぬ役まわりになりました。
 豪傑連の説諭を聞き終った高村卿は、
「それでは要するに、飛騨の国を取ることに助力ができないというのじゃな。それは意見の相違でぜひもないが、そちたち、勤王《きんのう》を名として、私藩の手先をつとむるような振舞があってはならぬぞ、幕府を倒して、第二の幕府を作るようなことになっては相済まぬぞ」
といってのけ、彼等がなおも弁明をしようとするのを聞かず、意見の合わぬところに助力の望みなし、助力の望みなきところに長居するの必要なし、直ちに帰るといい出しました。
 帰るといい出した英気風発の貴公子は、誰が留めても留まりそうもない。
 十数人のお神楽師《かぐらし》を差図して、荷物をまとめさせたが、ふと膝を打って、
「せっかくのみやげに羅陵王《らりょうおう》を舞うて見せようか、皆々おどれ」
と言い出でました。
 そこで、いったん、包みかけた荷物はほどいて、これらのお神楽師が薩摩屋敷の大広間で、腕をすぐって踊るから、志のあるほどのものは、小者《こもの》端女《はしため》に至るまで、来って見よとのことであります。特に舞台は設けないが、隔てを取払って、縁に居溢《いあふ》れた時は
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