付いていて、大空を勝手に行くことの自由をゆるされないのが人生である。あの男もどこかで行詰まるのではないか。あの男の蔭に、泣いて帰りを待つ妻子眷族《さいしけんぞく》というものもあるのではないか。
 さりとて、人間は天性、漂泊を好む動物に似ている。
 自由を好んで不自由の中に生活し、漂浪を愛して、一定の住居にとどまらなければならない人間。それでもその先祖はみな旅から旅を漂泊して歩いたものだから、時としてその本能が出て来て、人をして先祖の漂浪にあこがれしめるのではないか。物慾の中に血を沸かして生きている人々が、どうかすると西行や芭蕉のあとに、かぎりなき憧憬《どうけい》を起すのは、ふるさとを恋うるの心ではないか。
 左様なことを駒井は考えました。
 船はその夜、保田の港へ泊ることになったものですから、駒井も船の中に寝ることにきめました。この時分には、もう大抵の乗客は上陸してしまって、船は駒井だけのために館山へ廻航するの有様で、船のしたには駒井の携えてきた書物をはじめ、手荷物の類がかなり積み込まれているから、駒井も、ここでちょっと[#「ちょっと」に傍点]船とはわかれられないようになっているのです。
 まだ日脚《ひあし》は高いので、このまま船中に閉じ籠《こも》るのも気の利《き》かない話です。
 そこで、駒井甚三郎は、程遠からぬ鋸山《のこぎりやま》の日本寺へ登ることを思い立ちました。久しく房州にいるとはいえ、この山へ登ってみたいと思いながら、その機会がなかったのを、今日は幸いのことと思って、船頭に向い、
「これから日本寺へ参詣してくる、ことによると今夜はあの寺へ泊めてもらうかも知れない、しかし、明日の午後、船の出帆までには相違なくもどってくる」
といって、笠をかぶり、田山白雲が右の方、保田の町へ入り込んだのとちがって、左をさして、乾坤山《けんこんざん》日本寺の山に分け入りました。
 切石道を登って、楼門、元亨《げんこう》の銘《めい》ある海中出現の鐘、頼朝寄進の薬師堂塔、庵房のあとをめぐって、四角の竹の林から本堂に詣《もう》で、それを左へ羅漢道《らかんみち》にかかると、突然、上の山道から途方もない大きな声で話をするのが聞える。
「羅漢様に美《い》い男てえのはねえものだなあ」
「べらぼうめ、こちと[#「こちと」に傍点]等《ら》は羅漢様からお釣りをもらいてえくれえのものだ」
「ちげえねえ、いよう羅漢様」
「羅漢様――」
「羅漢様――」
 山を遊覧する人間が、大きな声を出してみたくなるのは、妙な心理作用であると思いました。江戸あたりから遊覧に来た連中らしいが、とうとうそれらは羅漢様からお釣りを取ろうという面《かお》を見せずに、あちらの山に消えてしまう。
 さて、石の千体の羅漢はこれから始まる。あるところには五体十体、やや離れて五十体、駒井甚三郎は、その目をひくものの一つ一つをかぞえて行くうち、愚拙《ぐせつ》なるもの、剽軽《ひょうきん》なるもの、なかには往々にして凡作ならざるものがある。無惨なのは首のない仏。しかしながら、首を取られて平然として立たせたもう姿には、なんともいえない超然味がないではない。
 やがて駒井が足をとどめたところには小さな堂があって、その傍らにかなり古色を帯びた石標――「秋風や心の燈《ともし》うごかさず 南総一燈法師」と刻んである。
 それよりも、駒井の心をひいたのは、まだ新しい羅漢様の一つに「元名《もとな》米商岡村ふみ」と刻まれた、その女名前が、妙に駒井の心をなやませました。
 そこを少しばかりのぼってまた曲りにかかる。
 その曲りかどで風が吹いて来ました。
 その風の中からおりて来たのが妙齢の美人です。
 駒井もゾッとしました。高島田に結って、明石《あかし》の着物を着た凄いほどの美人が、牡丹燈籠《ぼたんどうろう》のお露のような、その時分にはまだ牡丹燈籠という芝居はなかったはずですが、そういったような美人が、舞台から抜け出して、不意に山の秋風の中から身を現わしたのだから、駒井ほどのものも、ゾッとするのは無理もありません。
 それだけではありません。見ればその娘の胸に抱えられているものがある。
 娘が後生大事《ごしょうだいじ》に抱えているそれを、よく見ると羅漢様の首でありましたから、駒井はいよいよ怪しみの思いに堪えることができません。
 すれちがって、娘は曲りかどを下へ、駒井は立って見送っていると、一間ばかり行き過ぎた娘があとを振返って、駒井を見てにっこり[#「にっこり」に傍点]と笑いました。
「これからお登りなさるの?」
「ええ」
 駒井は物怪《もののけ》から物を尋ねられたように感じながら頷《うなず》いて見せると、
「お帰りに、わたくしのところへ泊っていらっしゃいな」
 これには急に挨拶ができませんでした。しかし、そこで駒井は
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