からないでいる。自分をわすれるにも程のあったものだというようなことを論じているうちに、船が木更津《きさらづ》へ着きました。
 ここで、こそこそと例の遊民どもは上陸し、乗客の大部分も下船しましたが、この二人は船の上に留《とど》まったまま、談論に耽《ふけ》っているのです。
 聞くところによると田山白雲は、保田《ほた》から上陸して房総をめぐり、主として太平洋の波を写生して帰るのだそうです。
 白雲のいうところによると、古来、日本の画家で、水を描いて応挙《おうきょ》の右に出づるものはないが、まだ大洋の水を写したのを見ない、房総の鼻をめぐって見ろと人から勧められたままに、出て来たのだということです。房総の海は自分に何を教えるか知らないといっている。
 駒井は、自分の仮住居《かりずまい》、洲崎《すのさき》の番所の位置をよく説明して、行程のうち、ぜひ足をとどめるようにとのことを勧め、田山は喜んでそれを請け入れました。
「わしは、こうして歩いていると、誰も画家とは見てくれないで困りますよ。いや困りはしません、結局、それが幸いになることもあるのです……そうです、十人が十人、拙者を武芸者だと睨《にら》んでかかるのですな。それが都合のよいこともありますが、滑稽を引起すことも珍しくはない。いや、武術も少しやるにはやりました。拙者の藩は小藩ですからな、僅かに一万石の小藩ですから、家老上席になったところで九十石の身分です。しかし、武術は好きで、ずいぶんやるにはやりましたよ、自慢ではないが、まあ、大抵の喧嘩には負けません。武術も好きでしたが、絵も好きでした。子供の時分、拙者は江戸で生れました。浅草の観世音へ行っては、あの掛額をながめて、絵をかいたものです、あれが拙者の最初の絵のお手本です。文晁《ぶんちょう》のところへも、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と行きました。ありゃ俗物です、俗物ですけれども、一流の親分肌のところもありましたね……絵の本当の師匠は古人にあるのです、古人よりも山水そのものですな。雪舟もいいましたね、大明国《だいみんこく》にわが師とすべき画はない、山水のみが師だ……と。要するに写生です、一も二も写生ですよ……しかし、この写生観は応挙のそれとは性質を異にしているかも知れませんが、写生はすなわち自然で、自然より大いなる産物はありませんからな――いけません、西洋の山水画というものも、うす[#「うす」に傍点]物を通して見るには見ましたが、それは支那のものとは比較になりませんよ。あなたは、支那の山水画を御存じでしょうな、雪舟、その他一二を除いては、日本の山水画も、あれにくらべると侏儒《いっすんぼうし》です、支那の山水画は人間の手に出来たものの最上至極のものです、あれがみんな写生ですよ……西洋画の写生よりも、もっと洗練された写生なんです」
といって白雲は、支那の古代からの、宋、元、明に及ぶまでの絵画の歴史と品評とを始めました。駒井甚三郎はここでもまた、異常なる傾聴を余儀なくされたのです。
 駒井も今まで絵を見ていないということはない。また絵についても当時の上流の士人が持っていただけの教養は持っている。ただ、当時上流の士人が持っていただけの教養以上にも、以外にも出でなかったのみだ。南北の両派、土佐、狩野《かのう》、四条、浮世絵等についての概念を以て、人の高雅なりとするものは高雅なりとし、平俗なりとするものは平俗としていたのが、ここで思いがけない写生一点張りの画論を聞いて、容易ならぬ暗示を与えられたようにも感じました。
 彼は船乗りの小僧、金椎《キンツイ》によって、西洋文明の経《たて》を流れているキリストの教えを教えられ、今はまた、ここで自分が絵画とか美術とかいうものに対する知識と理解の、極めて薄いことを覚《さと》らせられました。
 学ぶべきものは海の如く、山の如く、前途に横たわっている――という感じを、駒井甚三郎はこの時も深く銘《きざ》みつけられました。
 船が保田に着く。田山白雲は、一肩《いっけん》の画嚢《がのう》をひっさげて、ゆらりと船から桟橋へ飛び移りました。
「さようなら、近いうち必ず洲崎の御住所をお訪ね致しますよ」
 笠を傾けて、船と人とは別れました。まだ船にとどまって、館山《たてやま》まで行かねばならぬ駒井甚三郎は、保田の浜辺を悠々《ゆうゆう》と歩み行く田山白雲の姿を見て、一種奇異の感に堪えられませんでした。

         八

 その名のような白雲に似た旅の絵師を、駒井甚三郎は奇なりとして飽かず見送っておりました。
 ほどなく松の木のあるところから姿を隠してしまった後も、髣髴《ほうふつ》として眼にあるように思います。
 しかしながら、人の生涯は、大空にかかる白雲のように、切り離してしまえるものでないと思いました。人情の糸が、必ずどこかに
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