あ、あたいがここで口笛を吹くと、狼が出てくるんだから……」
「まあ怖い……お前は狼より、わたしの方が嫌いなの?」
「だって、息がつまりそうだもの」
「あたしの顔は、狼より怖い……」
「そんなことはないけれど……」
「わたしの息は、蛇の息より、熱苦しいの?」
「おばさん、堪忍《かんにん》して頂戴ね、あたいは怖いものはないけれど……」
「だから、おとなしく、おばさんのいうことをお聞きなさい、あたしは千人の子供を食べる鬼子母神様の生れ変りなんですもの」
「いけませんよ、おばさん。あ、それじゃ、あたい口笛を吹きますよ」
「吹いてごらん、いくらでも」
お銀様は、その呪《のろ》いそのもののような面《おもて》に、凄《すご》い笑いを漂わせて、茂太郎の口をおさえました。
四
お銀様の膝をのがれ出た茂太郎は、弁信に向っていいました、
「弁信さん、奥にいるおばさんはこわいおばさんですよ、人の子を取って食べるんですとさ」
「そばへ寄らないようにおし」
「嘘でしょう、千人の子供を取ってたべるなんて……」
「それは鬼子母神のことです」
「でも、鬼子母神様の生れ変りだっていいましたよ。ナゼ、鬼子母神様は、人の子を取って食べるの?」
「それは愛に餓えているからです……」
弁信法師はこういって、その話を打切って、二人は例の如く枕を並べて寝に就きました。
その夜は無事。
翌日になって、またしてもこの寺へ一人の珍客がやって来ました。
それは武州高尾山の半ぺん坊主が、やけに大きな奉加帳《ほうがちょう》を腰にブラ下げて、この寺に乗込んで来たことで、
「こういうわけで、今度お許しが出ましたから、またまた山を崩し、木を伐《き》って、車を仕掛けることになりました。ところで、役人の方はうまくまるめちまいましたが、工事をうまくまるめるには、別にそれ、丸いものが余分にかかりますでな……」
といって、頤《あご》を撫でながら奉加帳をくりひろげたものです。
奉加帳をひろげて、べらべらと能書《のうがき》を並べた末、
「さて高い声ではいえませんが……そうして登りが楽になりますてえと、山の上へ金持がバクチを打ちに参ります、商売人を連れて、おんか[#「おんか」に傍点]でバクチを打ちに参ります、これがそのテラ[#「テラ」に傍点]といっては出しませんが、この連中の納める杉苗が大したものなんで。それにのぼりが楽になりますてえと、連込みの客もだいぶ入ってまいります、こういうのが、また杉苗を余分におさめるというわけでございますから……その杉苗でございますか、そんなに杉苗をもらってどうするのだとおっしゃいますか……へ、へ、それは徳利の中でも、半ぺんの下でも、どこへでも植えちまいますから御心配下さるな。そういうわけで、この車が出来さえすれば、一割や二割の配当は目の前でございます」
半ぺん坊主は、言葉たくみに説き立てました。
その時、応対に出たのが幸か不幸か、弁信でありました。
弁信は半ぺん坊主のいうところを逐一《ちくいち》聞き終り、その終るを待って、
「御趣意の程、よく承《うけたまわ》りました。承ってみますると、私はそういうことを承らない方が仕合せであったという感じしか致さないのが残念でございます。あのお山は、私もついこの間まで御厄介になっておりましたから、よく存じておりますが、車を仕掛けて人様を引き上げねばならぬほどの難渋《なんじゅう》なお山ではございませぬ、斯様《かよう》に眼の不自由な私でさえも、さまで骨を折らずに登ることができましたくらいですから、御婦人や子供衆たちでも御同様に、さまで骨を折らずに、お登りになることができようと存じます。よし、多少、お骨は折れるに致しましても、そこに信心の有難味もございまして、登山の愉快というものもあるのではございませぬか、信心のためには、木曾の御岳山までもお登りなさる婦人たちがあるではございませぬか。それにくらぶれば、あのお山などは平地のようなものでございます。それに承れば、せっかく、代々のお山の木を切りまして、それを売払っていくら、いくらとのお話でございますが、昔のおきてでは、一枝を切らば一指を切るともございます、お山によっては、山内の木を伐《き》ったものは、死罪に行うところすらあるのでございます、それをあなた方、多年、そのお山の徳によって養われている方が先に立って、そういうことをなされて、御開山方へ何とお申しわけが立つのでございましょう……なおお聞き申しておりますると、せっかく信心の方々が杉苗を奉納なさるのを、あなた方は徳利の中へ入れて、飲んでおしまいになったり、半ぺんの下へ置いて、食べておしまいなさるそうですが、そうして、あなた方は、自分で自分の徳をほろぼしておしまいになることを、自慢にしておいでなさるのですか……樹木
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