は再び小冊子をくりひろげて、いちいち書抜きを指点しながら、
「ともかく、こういう真実性を持った巨人が現われて来ますと、凡俗は驚きますよ。人間が生きている! というわれわれの無邪気なる驚異で済まされないのは、その立場をおびやかされやしないかという小人ばらの恐怖です。多年、糊で固めておいた自分たちの立場が、この巨人のために一息で吹き飛ばされては大変だ。そこで狼狽《ろうばい》がはじまります、そこで小人が巨人を殺しにかかります」
「どうも困りものですね、巨人も小人も、共に生きてゆくわけにはゆきませんか」
 駒井が浩嘆《こうたん》すると白雲が、
「それをするには巨人が韜晦《とうかい》して隠れるよりほかはありません……ところが日蓮においては、それが反対で、巨人自身があくまで戦闘的に出でたのですからね、たまりません……しかし、この巨人は、秀吉のように、家康のように、武力を持っているわけでもなんでもなく、前に申す通り旃陀羅《せんだら》の子ですからな、ほんとうに素裸《すっぱだか》です。しかるに敵はあらゆる武器を利用することができます」
といって白雲はお茶を飲みました。そうして嘯《うそぶ》くように気を吐いて、外をながめると、ちょうど窓の開いてあったところから、かぎりもない外洋の一部が眼に入って、そこから心地よい海の風の吹いて来るのを感じました。
「これは日蓮自身もいっています――世には王に悪《にく》まるれば民に悪まれない、僧に悪まれる時は俗に味方がある、男に悪まれても女には好まれ、愚痴の人が悪めば智人が愛するといったふうに、どちらかに味方があるものだが、日蓮のように、すべて悪《にく》まれる者は、前代未聞にして後代にあるべしともおぼえず……生年三十二より今年五十四に至るまで、二十余年の間、或いは寺を追い出され、或いは所を追われ、或いは親類を煩《わずら》わされ、或いは夜打ちにあい、或いは合戦にあい、或いは悪口《あっこう》かずを知らず、或いは打たれ、或いは手を負う、或いは弟子を殺され、或いは首を切られんとし、或いは流罪《るざい》両度に及べり、二十余年が間、一時片時も心安き事なし――『日本国ハ皆日蓮ガ敵トナルベシ――恐レテ是ヲ云ハズンバ、地獄ニ落チテ閻魔《えんま》ノ責ヲバ如何《いかん》セン――』これですから堪りません、悪《にく》まれます――しかし、駒井さん、薄っぺらの、雷同の、人気取りの、おたいこ持ちの、日和見《ひよりみ》の、風吹き次第の、小股すくいの、あやつりの、小人雑輩の、紛々擾々《ふんぷんじょうじょう》たる中へ、これだけの悪まれ者を産み出した安房の国の海は光栄です。今でも小湊の浜辺に立ってごらんなさい、われは日本の柱なりという声を聞かずにおられませんよ」

         二十二

 田山白雲は、ここに当分足をとどめることになって、駒井の造船所を見たり、附近の名所をさぐったり、或いは一室にこもって、駒井のために何か一筆をかき残して置くといっていました。
 白雲の給仕役は例の金椎《キンツイ》です。まもなく白雲と金椎とは心安くなりました。
 今日は白雲が一室にこもって、長い筆をふるいながら絵をかいている。絵をかきながら鼻唄をうたっている。
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ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
南条|長田《おさだ》へ魚《とと》買いに……
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 そこへ不意に駒井甚三郎が入って来て、
「田山氏、鉄砲の試験をするから、見に行かないか」
 駒井はこの頃、小銃の製造に苦心していたが、それが出来上ったと見えて、白雲に同行をうながすと、
「お伴《とも》しましょう」
 白雲は直ちに絵筆をなげうちました。
 駒井は軽装かいがいしく、一挺の鉄砲と弾薬を用意して出かけると、白雲は例の駒井から借着の筒袖のつんつるてんで、そのあとについて行きます。
「駒井さん、僕はこういう岩畳《がんじょう》な身体《からだ》をして美人を描いているのに、あんたは虫も殺さないような顔をしていながら、殺生《せっしょう》な武器を作るのですね」
と白雲が言いますと、駒井が、
「なるほど、そういわれればそうですね」
 ほどなく馬場のようなところへ来て見ると、射撃の練習は今にはじまったことではないと見えて、場の一方に的《まと》が幾つもかけてありました。
 ここで駒井が三十間、五十間、百間と位置をかえて鉄砲を打つのを、田山白雲が見て感心しました。
「なるほど、商売商売だ」
 小さな厚紙の的をかけて置いては、それを、パチリパチリとうちおとしてゆく駒井の手腕は鮮かなもので、全く風采《ふうさい》に似合わないはなれ業《わざ》であると感心しないわけにゆきません。ことにこの鉄砲そのものが自分の手で作られ、英国製のスナイドルというのを分解して、それに自分の意匠を加えたものだと
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