ざいます」
 弁信が暗いところで、こんなことをいい出したものですから、勘八は気味が悪くなりました。実はさいぜんとても、面に現われた鬼女の妬相《とそう》にゾッ[#「ゾッ」に傍点]とするほどおそろしさを見せられていたのに、そこへまた弁信が、何かむずかしい因縁を説き出したものでありますから、勘八は無意識に気味が悪くなり、自分は黄金二枚で果報が充分だ、よけいな面を持って帰って、せっかくの果報が祟《たた》りに変っては災難だと思ったものですから、ではこの面はお寺へおさめてまいりましょうといって、そこに置いて、わが家へ帰ってしまいました。

         十三

 塩尻から五千石通りの近道を、松本の城下にはいって、机竜之助と、お雪ちゃんと、久助の一行は、わざと松本の城下へは泊らずに、城下から少し離れた浅間の湯に泊り、そこで一時の旅の疲れを休め、馬をやとい、食糧を用意して、島々谷《しまじまだに》の道を分け入ることになりました。
 浅間を立つ時に、宿で誰かが久助に向って、こんなことをいうのを、竜之助は耳に留めておりました、
「おやおや、白骨《しらほね》までおいでになるのですか、これから、この寒《かん》に向おうとする時分に……それはそれは大変なことでございます、あちらでは追々《おいおい》、お湯をとざして、大野や松本へ出てまいりまする時分に、あなた方はあちらへおいでになる……そうして冬籠《ふゆごも》りをなさる、いやそれほどの御辛抱がおありになれば、いかなる難病でもなおらぬということはございますまいが……それにしても、まあ、途中だけでも容易なものではございませんよ……いっそ、この浅間の温泉で御養生をなすったらいかがでございますか。それは、お湯はとうてい白骨ほどのきき目はないかも知れませんが、第一、ここにおいでになれば御城下は近し、四時、人の絶えたことはございませんから、心配というものが更にありません。あの、奥信濃の飛騨の国との境、白骨の温泉で冬籠りをなさるというのは、ずいぶん冒険でございます、それはできないことはございますまいが……雪が降り積って、山も、谷も、埋めた時は、全く人間界を離れてしまいますからな、御用意に如才《じょさい》もございますまいが、食物から寒さをしのぐ用意まで、念をお入れになりませんと……それと雪の降る日などは、飢えに迫って猛獣が、人のにおいをかぎつけてまいりますから
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