て道庵が手をうってよろこびました。
その時、道庵先生は米友に向って、
「神様を拝むには、少し遠く離れて拝まなくちゃならねえ、あんまり賽銭箱《さんせんばこ》の傍へ寄って拝んじゃならねえ……ちょうど、この鳥居前あたりがいいところだろう」
と神様を拝む秘伝を教えますと、米友が解《げ》せない面《かお》をしました。
「先生」
「何だい」
「どこで拝んだって、心さえ誠ならば、それでよかりそうなものじゃねえか……よしんば賽銭箱の前で拝もうと、鳥居前で拝もうと、信心に変りがなければ、御利益《ごりやく》にも変りはなかろうじゃねえか」
と米友が不審を打つと、道庵はそこだとばかりに、
「それが素人考《しろうとかんが》えというものだ」
と一喝《いっかつ》を試みました。
「そうかなあ」
米友は無言で何か反省を試むるような気色《けしき》でありましたが、なにぶん解《げ》せない面色《かおいろ》を拭うことができません。
「わかったか」
と道庵からいわれて、
「どうもわからねえ」
と白状しました。正直な米友の心では、神様を拝むのに誠心《まごころ》を論ずるのはよいが、距離を論ずるのは、ドコまでも不当理窟のように思われてならないのです。つまり、お賽銭箱の前で拝もうと、鳥居の前で拝もうと、また自宅の神棚へ招じて拝もうと、誠心に変りがなければよいものだという理窟を、道庵が排斥しながら説き明《あか》してくれないものだから、迷います。
道庵はそれを相変らずいい気持で、
「は、は、は、は、は……」
と高笑いしたのは、本気の沙汰だか、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]ているのだかわかりません。
しかし、米友としては道庵を信じ、今までとても、気狂《きちが》いじみたところに、あとでなるほどと思わせられたり、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]きったのが存外、まじめであったりしたことを、いつもあとで発見させられるものですから、これにも何か相当のよりどころがあるので、それはあとでおのずから教えられることだろうと、押返してたずねなかったのは、つまり米友もそれだけ修行が積んだものでしょう。
凡庸《ぼんよう》なる科学者を名画の前へ連れて行くと、心得たりとばかりに画面へ顔を摺《す》りつけながら、天文学で使用するような拡大鏡を取り出して両眼に当て、画面の隅々隈々《すみずみくまぐま》までも熱心に見つめる。そうしていう。この線とこの線の間は何
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