危ない目に逢うか知れたものじゃありません」
「ははあ……」
 竜之助はそれを聞き流しながら、
「お前さんなんぞは、かっぷくがいいから、そのかっぷくで敵を押しつぶしてしまったら、たいがいの男はつぶれてしまうでしょう」
「御冗談《ごじょうだん》を……」
 後家さんは、まじめに取合われないのを、ちょっとすねてみましたが、
「ねえ、先生」
 暫くして、また改まったように、甘えた口調《くちょう》で呼びかけました。
「ねえ、先生、あなたは人を殺したことがおありなさる?」
 後家さんの肪《あぶら》ぎった面《かお》に、小さい銀色の粒が浮いて来ました。
「何ですって?」
 竜之助は、わざと聞き耳を立てました。
「先生、あなたは人を殺したことがおありなさるでしょう」
「どうして、そんなことを聞くのです」
「でも……」
 ちょうど、道が沼の岸を離れて林の中に入る時分に、後家婆さんは、後ろの方をそっと顧みて、
「それでも、人を殺してみないと、度胸が定まらないっていうじゃありませんか」
「そんなはずはあるまい、人を殺さなくても天性度胸のいい者はいい、臆気《おくびょう》な奴が、かえって大事をしでかすこともあるものさ」
「それはそうでしょう。けれどいちど、人を殺すと、それから毒を食《くら》えば皿までという気になって、腹が出来るというじゃありませんか」
「そうか知ら」
「真剣ですよ、先生、わたしは、真剣で先生にお話し申しもし、先生からお聞き申しもしたいものですから、この通り、話しながらも動悸《どうき》が高くなっているのですよ」
「そうかといって、おれは人を殺しました、と答える奴もあるまい」
「そうおっしゃられてしまえば、それまでですけれど、先生には、わたし、このことをお尋ねしてもいいと思っているから、それでお尋ねしているんですよ。つまり、わたしは、あなたは、たしかに人を殺しておいでなさると見込みをつけてしまったものですから、こんなことを臆面もなくお聞き申すんですが、あなたがお返事をして下さらなければ、わたしの方から白状してみましょうか。これでも、わたし、人殺しをしたことがありますのよ」
 こういって、後家さんは忙がしそうに、四方《あたり》を盗み見ましたけれど、そこは一鳥も鳴かぬ無人のさかいであります。
 強《し》いて人に物を問いかけるのは、必ず自分の身に相当の不安があるからであります。
「幾人!」
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