に行李《こうり》を結びながら、
「私は、明日再び山へ入ります、そうして今度は当分出て来ないつもりです」
と言うと、あちらを向いていたお銀様が、
「どちらの方の山へ?」
とたずねました。
「以前の方の山を、もう少し深く、入れるだけ入ってみようと思います」
「そちらの山を深く行きますと、温泉がございますか?」
「温泉……あちらの方面には温泉がありませぬ」
「わたしは、また温泉のある方の山へ行ってみたいと思います」
「そうですか……では、信州の方面へおいでになるとよろしうございます、甲武信と申しましても、甲州と武州には、温泉らしい温泉がありませぬ」
「あなたは御存じですか」
とお銀様があらたまった質問を、兵馬に向って試みようとします。
「何でございますか」
「このごろ、此寺《ここ》の娘さんはドチラの温泉へまいりましたか」
「ああ、お雪ちゃんですか……あの子は、そうですね、どこでしたか……」
と兵馬が小首を捻《ひね》りました。
「あなたも、そのお雪ちゃんという娘さんを御存じでしょうね」
「知っていますとも、親切なよい娘さんです。わたしもそのお雪ちゃんの親切で、この寺へ御厄介になる縁になったのです」
「そうですか。その娘さんはひとりで温泉へおいでになりましたか?」
「いいえ、ひとりではありますまい、娘さん一人では遠くへは出られますまい……誰か近所の人が附いて行ったようです」
「その近所の人というのは、誰ですか御存じ?」
「知りません、私のいない間のことですから……」
「わたしも、そのお雪ちゃんとやらの行った温泉へ、行ってみたいと思うのですが、それは、あなたのおいでになろうとする山の方角とは違いますか」
「さあ、それが……私の行こうとする方面には、こころあたりの温泉がないのです」
「誰も、そのお雪ちゃんという娘さんの行った先の温泉を、知らないというのが不思議ではありませんか」
「知らないはずはありますまい、留守の人に尋ねてごらんになりましたか」
「尋ねてみましたけれど、誰も教えてはくれません」
「それでは、あとで私が尋ねてみて上げましょう、誰か知っていなければならないはずです」
そこで、兵馬は、少し進んでたずねてみようかと思いました。
いったい、この不思議な女の人は、誰をたずねてこの寺へ来たのだ。男の姿に身をかえてまで、一人旅をしてたずねて来たのは、どうもお雪という娘をめあ
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