ことに金の有難味を知っている神尾主膳――金を儲《もう》けることの有難味ではない。使う方の有難味を知っている神尾主膳にとっては、金の光と一緒でなければ、どこへも行ってみようという気にならない。
眼と鼻の先に吉原があろうとも、好きな書画|骨董《こっとう》の売立ての引札を見ようとも、かわり狂言の番付がくばられようとも、しょげるばかりで浮き立たない。
お絹にあっては、それがいっそう輪をかけた渇望で、この女の持っているすべての虚栄心と不満足は、みな金というところへ落ちて行く。その金が廻らない。廻るべきはずもない。果してこんなところへ思うように廻って来れば、この世に苦労はない。そこで、どうしても廻らないものを、無理に廻そうとする。
あの当座こそ、二人は外へも出ないで、浮《うわ》ずって暮らしていたが、このごろ、お絹は、小女《こおんな》をつれてちょいちょいと出歩く。どうかすると、朝出て夜おそく帰って来ることさえある。
それは廻らないものを、無理に廻そうとする算段だと知っているから、神尾もとがめ立てをするわけにはゆかない。けれども、その出て行ったあとでは、神尾もいい心持はしない。ことに夜おそく帰られたりする時には、むらむらと気が変になることもあるが、今の身ではそれもかれこれということはできない。そういう時には、お絹が必ず多少のみやげを持って来るのだから。そのみやげというのは、つまり、差当って二人の生活になくてはならぬ「金」をどこからか借り出して来るからです。
こうして神尾は、今のところ、お絹の働きによって養われている有様だが、これは神尾にとって不満であるように、お絹にとっても食い足りない。もっと派手に儲けて、もっと派手に遣《つか》いたい。その時にお絹は、お角のことを思い出して、ひとり腹立たしくなる。何か一やま当てて、あの女の鼻を明かすような働きがしてみたいが、どうも足掻《あが》きがつかない。
こんな謀叛気《むほんぎ》は、神尾も相当に持っていないではないから、二人は顔を見合わせると、あれかこれかと語り合ってみるが、落着くところは資本《もとで》。まとまった金が土台になければ動きが取れないということになる。
お絹が駒井甚三郎に当りをつけたのは、最初からのことでしたが、手を廻してみると、駒井は房州の方へ行ってしまったとのこと。房州まで逐《お》いかけて行く気にもなれない。
前へ
次へ
全161ページ中103ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング