、
「ええ、煙硝《えんしょう》の煙で、お目を悪くしてしまったのだそうですよ」
「それはいけません」
「どういうわけですか、わたしもよくは聞きませんでした」
二人がボツリボツリとこんな問答をしている間も、席を外《はず》した後家さんは戻って来ません。いったい、どこへ何しに行ったのだ。お雪もようやくもどかしくなりました。
「どうしたんでしょう、おばさん帰りが遅いですね、わたし、お暇致しましょう」
お雪も、若い男と二人さしむかいでは気が置けると見えて、帰ろうとすると、
「まあ、いいじゃございませんか、お話しなさいまし、もうすぐ帰りますよ」
「それでも……では出直して参りましょう」
「いいえ、よろしうございますよ。それからお嬢さん、まだ本がいくらもございますから、お持ち下さいまし」
「そうですか、それではあとでお借り申しに上りましょう、御免下さいまし」
と、そこそこにお暇乞いをしてお雪は帰りますと、まもなく、自分の廊下のところに立ち止まりました。
その中でヒソヒソと話し声が聞えたからです。はて、久助さんは下で煙草切りをしているはず。あとは先生一人でいたはず。そこでヒソヒソと話し声がしたものですから、お雪が足をとどめたのも無理はありません。
「実川延若《じつかわえんじゃく》の石川五右衛門、ようござんしたねえ」
と、詠嘆的にいったのは、例の後家さんの声でありました。
帰って来ないはず。ここで話し込んでいたのだもの――
それにしても、座興半ばで席を外して、人の座敷へ来て、ゆるゆると話し込んで、しかも役者の噂《うわさ》、おばさんも暢気《のんき》過ぎると、お雪も少し呆《あき》れていると、
「そうすると、隣りの桟敷《さじき》にいた若い人のいうことがいいじゃありませんか、あれでは五右衛門がいい男過ぎる、五右衛門という奴は悪人だから、あんないい男にこしらえてはいけない……ですとさ。悪人をいい男にこしらえては、なぜいけないんでしょう。ですから、わたしがいってやりました、悪人はみんないい男ですよ、いい男だから悪人にされてしまうんですって。醜男《ぶおとこ》だけが誰もかまい手がないから、それでやむを得ず善人でいられるんですって。ですから大抵の女は、善人よりも悪人に惚れますよ、といってやりました」
後家さんは、水っぽい調子で得意になって、こんなことを言っていましたから、お雪がいっそう呆れて
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