まで重ねて、おずおずと入って来たのは、二十二三の色の白い、羽織じかけの気の利《き》いた商人風のやさ[#「やさ」に傍点]男であります。
「実は、私は困ってしまいましたものですから、お見かけ申して、あつかましくもお願いに上ったわけなのですが……早く申しますと、私はここを逃げ出したいのでございますが、どう逃げ出したらよろしうございましょう、お察し下さいまし」
その語尾が、おろおろ声になるほどの嘆願でありましたから、ははあ、これは例の男妾だなと竜之助が思いました。
その話は、もうお雪から聞いていたのです――
「あの後家さんは男妾を連れて来ているんですって。かわいそうに、その男妾というのは、逃げ出したがって、逃げだしたがって、弱りきっているんですって」
とお雪が、前の晩に竜之助に向って、笑いながら話したことでした。
それが、この隙《すき》を見て相談に来たのだな、笑止千万なことだと思っていると、その男はにじり寄って、
「恥をお話し申さないとわかりませんが、実はあの婦人につかまりましたのも、私の方にも落度《おちど》がないとは申されませぬ……私の方にもあの後家さんをため[#「ため」に傍点]にしようと思う慾があったから、こうなってしまったんでございますが、これで私には、国に妻子が残してあるんでございます、どうかして逃げるくふうはないものでございましょうか、ただいまにも、私を逃がしていただけないものでございましょうか、お願いでございます」
馬鹿な奴だ! 意気地のない骨頂《こっちょう》の奴だ。つまり富裕な後家さんからたらされたのを機会に、甘い汁を吸おうと思って、御意《ぎょい》に従ったのが仇《あだ》となり、さんざん、おもちゃにされて精根《せいこん》を吸い取られ、逃げ出しては取つかまり、取つかまり、どうにもこうにも所在が尽き果てて、人の顔を見れば助けを求めているのだ。そこで竜之助は、
「せっかくですが、拙者にも智恵がありません」
男は泣かぬばかりに、
「弱りました、全く弱りました、この分では、私は殺されてしまいます……いっそ、女を殺してと思いましたけれど、私にはそれだけの力がございません、ああ、もうやがて帰って参りましょう、私は、怖ろしうございます、私はあの女の息をかぐのが、大蛇《おろち》の息をかぐような気持がします、あの女にそばへよられると、道成寺《どうじょうじ》の鐘のように、私
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