気がつかなかったお客は、多分、暗くなってから着いたお客だろうと思い、
「今夜は、お月夜かも知れません、障子をあけましょうか」
気を利《き》かして、女は剃刀の手を休め、客をして月明の諏訪の湖《うみ》をながめ飽かしめんとした好意を、竜之助は断わって、
「風が冷たいからそれには及ぶまい。そうだな、月というものを見たのは、いつのことか。伊勢の阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》というところで見たのが、あれが最後だろう。いや、あれは見たのではない、聞いたのだ。夕凪《ゆうなぎ》と朝凪《あさなぎ》に名を得た静かな伊勢の海、遠く潮鳴りの音がして、その間を千鳥が鳴いて通った時、浜辺と海がぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と明るくなったように覚えている。多分、あの時に月がのぼったのだろう。あれ以来見たことはもちろん、聞いたこともない」
竜之助が、謎のような独語《ひとりごと》。急に剃刀の手を止めた女の面《かお》が美しいものになりました。
この女は、もうよい年ですけれども、お化粧をして、赤い縮緬《ちりめん》の前掛をしていましたが、
「まあ、伊勢からおいでになりましたのですか」
急に、晴々《はればれ》した美しい面になる
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