へまわって、その面立《おもだ》ちを見定めなければ立去れないことがある。死というものが万事の消滅だと事実が証明しても、空想がそうは信じさせようとしません――しかも、人生のことは空想が大部分で、人は事実に生きるよりは、むしろ空想に生きているのであります。
 聖人は空想と事実とをよく統一する。狂人はそれを混同する。凡人は、その間《かん》に彷徨《ほうこう》して醒《さ》めたるが如く、酔えるが如し。
 さてここに、宇治山田の米友に至っては、空想と事実との境界が、ほとんど判然しない。この男は人間のこしらえた差別線と高低線に対しては、先天的に色盲のような男で、どうかしてその線にひっかかると、眼の色を変えて怒り出す。この男の怒り方は、反抗的、或いは相対的に怒るのではありません、先天的に怒るのであります。とはいえ、この男を狂者と見るには、あまりに道義的で、同時に常識的のところがあります。
 今や、不幸にしてこの男は、人生の水平線がわからなくなっているように、死と生との分界線がまたわからなくなっているのであります。死が万事の消滅だと信じきれなくなっているのであります。ああ、この何千貫の石の蓋は、かよわき女性
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