井甚三郎のところへは、お角はしげしげ出入りして、あの当座、多少の融通黙会《ゆうずうもっかい》はあったかも知れないが、今の他人行儀を見れば、このたびの興行に駒井の力は加わっていなかったことは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵といえども疑う余地はないところであります。
 高利の金を借りた場合には、玄人筋《くろうとすじ》は当人の手にその金が入るより先に、その噂を受取るに違いないが、さっぱりそのことがない。
 だから、玄人《くろうと》は興行の腕よりも、お角の金策の腕に舌を捲いている。
 初日の評判を後にして、その日いっぱいの上り高のしめくくりをしたお角は、払い渡すべきものは即座に払い渡し、大入袋の割振りまできびきびとやっつけて、残った金を両替にすると、それを恭《うやうや》しく紙に包んで男衆を呼びました。
「庄さん、ちょっとそこまで一緒に御苦労しておくれ」
 やはり風の吹いた同じ日の晩。
 一人の男衆を連れたお角は、両国橋の宿を立ち出でました。
 その行先が疑問、それを突き留めさえすれば、金策の問題もおのずから氷釈するに違いありません。通俗に考えれば、これは、てっきり[#「てっきり」に傍点]、柳橋の遊船宿に駒井甚三郎を訪ねて出かけたものに相違ない――お角ほどの女が、その時分に息をはずませて柳橋を渡り渡りした時は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵をひとかたならず嫉《や》かせたものです。
 ところが、今はこの通俗な予想も、まるっきり違って、お角が訪ねて行く足どりもおちついたもので、足を踏み入れたところは通人の通う柳橋ではなく、諸国のお客様の定宿《じょうやど》の多い馬喰町の通りであります。
 そこで、一二といわれる大城屋良助の前へ来ると、お角は丁寧に宿の者に申し入れました、
「有野村のお大尽様《だいじんさま》に、両国橋から参りましたとお伝え下さいまし」
「はい、畏《かしこ》まりました」
 ほどなく、お角は男衆の手から包みを取って、案内につれて通る。男衆は店頭《みせさき》に腰をかけて待っている。
 お角の通された一間、そこには丸頭巾をかぶったお金持らしい老人が一人、眼鏡をかけてしきりに本を読んでいる。そこへお角が通されて、
「お大尽様、お邪魔に上りました」
「おお、お角どの、まあずっとこれへお入りなさい」
といって老人は本を伏せ、眼鏡を外《はず》して、座をすすめると、お角はしおらしく、
「御免下さいまし」
 座へ通って再び老人に頭を下げ、
「おかげさまで、すっかり当ってしまいました。これで、わたしの胸も、すっかり透いてしまいました。就きましては早速、心ばかりのお初穂《はつほ》を差上げまするつもりで……」
といって風呂敷を解きかけたその中は、確かにお金の包みであります。
 いわゆるお大尽の前へ、お金の包みを積み上げますと、お大尽は、莞爾《にっこり》と笑い、
「いやもう、それはお固いことだ、娘もああしてお世話になっているし、そう急ぐというつもりもないのだが、せっかくだから……」
 ここで初めてお角の金主元が知れた次第です。つまりお角は、このお大尽から金を引き出している。しからばこのお大尽なるものは何者。
 王朝時代からの旧家といわれた甲州有野村の長者藤原家、その当主の伊太夫。それがすなわちこのお大尽で、ただいま、お角の家に厄介になっているお銀様のまことの父がこの人であります。
 さればこそ、測り知られぬ山と、田と、畑と、祖先以来の金銀と、比類のない馬の数を持っているこの富豪をつかまえたことが、興行界の玄人筋《くろうとすじ》の機敏な目先にも見抜き切れなかったことになる。
 大尽は、金の包みを前に置いたままで、
「どうだね、お角さん、あれはどうしても帰るとはいいませんか」
「そればっかりはいけません、いくら申し上げましても……」
「そうだろう、どうも仕方がない。よし帰るといってもらったところで、また難儀じゃ。いっそのこと、どこまでもお前さんに面倒を見てもらいたいと、わしは思っているのだが」
「どう致しまして、わたくしなんぞは御面倒を見ていただけばといって、お力になれるわけのものではございません」
「いや、あの通りの我儘者《わがままもの》だから、お前さんのような、しっかり[#「しっかり」に傍点]した者が付いていてくれると、わしも安心じゃ」
「痛み入ったお言葉でございます、そのお言葉だけを勿体《もったい》なく頂戴して、一生の宝に致したいと存じます」
「そういうわけだから、ドコかしかるべき地面家作のようなものがあったら、ひとつお世話をしていただきたい、あれの暮して行けるだけのことはしておいて帰りたいと思いますからね」
「そうしてお上げ申した方がお嬢様のお為めならば、ずいぶん御周旋を致しましょう」
「無論、その方があれのためになる、それでは万事よろ
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