て、武術の一般を学んでいないということもあるまい。まして、こうして物おだやかでない市中を、ひとりあるきするほどのものには、相当の心得がなければならないはず。その当時の紀綱《きこう》を維持する斬捨て御免の制度は、武士階級の面目を保護するために、百姓町人に向って応用することをゆるされているはず。しかるに、取るにも足らぬ小者《こもの》の罵詈悪口《ばりあっこう》に対して、この意気地ない有様は何事。
 それでは、宇治山田の米友の槍の手並と、その矮躯短身《わいくたんしん》のうちにひそむ非凡の怪力《かいりき》を知って、それに怖れをなしているのか。そうでもあるまい。
 この時、宇治山田の米友が、何におどろいてか、両の手を頭の上に高くあげて、
「死んだものを活《い》かしてかえせとは無理だった、これは人間の力でできることではねえ、神仏の力でも、死んだものを活かしてかえすことはできねえ……往《ゆ》きてかえらぬ死出の旅と歌にもあらあ。そうだ、そうだ、おいら[#「おいら」に傍点]も旅に出かけるんだった。長者町の先生が、おいら[#「おいら」に傍点]をつれて京都から大阪をめぐる約束になっているのだ――京都でも大阪でも、唐《から》でも、天竺《てんじく》でも、無茶苦茶にあるいてくるのだ。トテもおいら[#「おいら」に傍点]のこの心持では、一つところにじっとしてはいられねえ」
と叫び出すと共に、抛《ほう》り出しておいた手桶を取って、その水をザブリと花桶の中に打込むと共に、疾風の如くこの店をかけ出して、伝通院の境内に姿をかくしてしまいました。

         二十一

 その時分、神尾主膳は、もう栃木の大中寺《だいちゅうじ》にはおりません。
 ほどなく、根岸の御行《おぎょう》の松に近いところへ、かなりの広い屋敷を借受けて、そこへ移り住んだ主《ぬし》というのが、別人ならぬ神尾主膳でありました。
 この屋敷は、とても以前の染井の化物屋敷ほどの面積はないが、それでも相当の間数と庭とがあって、中にじっと潜《ひそ》んでいる分には、あまり近所の人目に、わからないほどの広さと静けさとを持っています。
 ここへ移り住んだけれども、その当座、神尾は決して外出をするということがなく、日中は庭先へさえも出ない有様で、至極おとなしく[#「おとなしく」に傍点]暮らしていたが、どうかしたハズミで、部屋に備付けの鏡を見た時に、神尾が何ともいえない不快な面色《かおいろ》になって、ひとりでじれ[#「じれ」に傍点]出してくるのが例になっています。
 寺へ、逼塞《ひっそく》して、ひとたび心の洗濯もしてみたけれど、額に残る淫眼の傷は拭えども去らず、消せども消えず、それを見るたびに神尾が、怒りつ、焦《じ》れつするのもまた無残なるものであります。
 ところで、この神尾が、移り住んで来たその身のまわりの世話をしている女が、寺男の女房のお吉であることも、この世界にはものめずらしいばかりであります。
 お吉は引越しの当座だけ、おてつだいに来たのだから、直ぐに帰る、帰るといいながら、まだ容易に帰る様子もありません。また、神尾としてもいま、お吉に出られては、差向きこまるから、かわりのあるまでと、無理に引留めてはいるらしい。
 神尾をこうして、再び江戸の方へ引張り出した有力な策士は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であることまぎれもないが、百蔵とても、今はさかさにふる[#「ふる」に傍点]っても水の出てこない神尾を、かつぎまわったところで仕方があるまい。
 これは、本来の目的がはずれて、まぐれ当りに神尾にぶっつかり[#「ぶっつかり」に傍点]、神尾の方でも、また逼塞《ひっそく》の生活にいいかげん退屈しているのを機会《しお》に、がんりき[#「がんりき」に傍点]を頼んだものと見える。
 こうして、二人のやくざ[#「やくざ」に傍点]者が、腐れ縁ながら提携してしまってみると、これから後、類は友をひいて、再び染井の化物屋敷が、この根岸へ現われてくるものと見るほかはあるまい。
 ただ、気の毒なのは、正直な田舎者《いなかもの》のお吉で、こんなところに永居《ながい》をすれば、よいことはないにきまっている。
 それでも、この女は、もとの領主という尊敬をいつまでも失わず、忠実につとめて、国に夫が待ってさえいなければ、いつまでもここで御用をつとめる気分になっているらしい。
 神尾とても、酒乱の兆《きざ》さざるかぎり、お吉に向って、そう乱暴を働くということもなく、またこの男は、やくざ者だけに、ドコか肌合いにやさし[#「やさし」に傍点]味もあると見えて、そう没義道《もぎどう》に人を使うということもないと見える。
 神尾は引籠《ひきこも》って、人に姿を見せないし、お吉は別荘の留守番といったような格で、かいがいしく働いているから、庭や垣根の手入
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