いに怒り、刀を抜いてこの女房を一太刀《ひとたち》に斬って捨ててしまいました。
 この女房というのがすなわちお万殿で、もとは、美濃国岩村の城主遠山勘太郎が妻、信長のためには実の伯母《おば》です。岩村の城陥落の時、武田家の将、秋山伯耆守の手に捕われ、ついに伯耆守の妾となって、少しも恥ずる色がなく仕えていたから、信長が怒りに堪えずこの始末。
 それで、お万殿の恨みが消えない。遊魂《ゆうこん》今もさまようて、夜な夜な神詣《かみもう》でをするといういいつたえが残る。
「ははあ、ではそのお万殿というのが、色々の小袖を着て、錦の袋に茶入を納め、それを捧げながらこの前を通って、諏訪明神へ参詣というわけだな。そうなると、いよいよ見てやりたくなる」
 仏頂寺弥助がいいますと、丸山勇仙は、
「それはなんとなく忍びない心持がする、見てやらないのが人情だろう」
 その時、盃の酒の冷えたのに気がつきました。

         十二

 こちらの座敷では、明朝塩尻までの馬の相談にいって来た久助が、どこで聞いて来たか、前のとほぼおなじようなお万殿のいわれを、お雪に向って話すと、
「かわいそうだわね、それではお万殿の恨みが残るのも無理がないわ」
といいました。
「どうも仕方がねえ、敵の大将に肌をゆるしたんだから――」
 久助は鈍感な返事。
「だって、かわいそうですわ、生捕りにされちまったんですもの」
「生捕りにされたって、お前様、敵の大将に肌をゆるせば、後で殺されたって仕方がない」
 久助は、仕方がないで押切るのを、お雪は残念がって、
「それでも……常磐御前《ときわごぜん》をごらんなさいな、義朝《よしとも》につかえていて、あとで清盛の寵愛《ちょうあい》を受けて、それでも貞女といわれてるじゃありませんか」
 お雪は常磐御前を味方に連れて来て、久助をいいこめようとする。久助は迷惑がって、
「ありゃお前様、子供を助けたいからなんでさあ。源氏の胤《たね》を残したいから、仕方がなしにああなったんでしょう」
「仕方がないといえば、お前、お万殿だって、戦《いくさ》に負けて敵に囲まれてしまえば、なお仕方がないじゃないの。自害しようたって、できないこともあるでしょう。わたし、お万殿はちっとも悪い人じゃないと思ってよ。信長の前へ色々の小袖を着て、錦の袋に納めた茶入を持って来て見せるなんて、しおらしいじゃないの。きっと
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