明日。そこで、広くもあらぬこの炭焼小屋に枕を並べて、一夜を明かすことになりました。勘八は早くも高鼾《たかいびき》、兵馬もやがて眠りにつき、お銀様もうとうととして夢路に入りましたが、肉体は疲労によってあくまで休息を求めるのに、神経は夜来の刺戟によって、盛んに躍動をつづけようとする。こういう時には、誰しも見まいとして見るのが怖ろしい夢です。
 お銀様は怖ろしい夢にうなされました。その夢とても、過去の現実を離れた夢ではなく、過去の最も怖ろしかった記憶が、ほとんどそのままに再現されたままです。
 その怖ろしかった記憶は、躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古屋敷で、酒乱の神尾主膳に脅迫《きょうはく》された時、伯耆《ほうき》の安綱《やすつな》の名刀を抜いて迫り来《きた》る神尾主膳、それを逃れて走り下りた二階の階段、そこには善悪邪正いずれとも判別しかねる人がいた。
 理も非もなくその人に縋《すが》りついて助けを求めた時、その鉄壁のような冷たさと、吸盤のような引力に吸い込まれて、その夜、ついに怪しい二つの蝶の夢を見て、夜が明けた時は、肌がすっかりと汗ばんで、髪がべっとり[#「べっとり」に傍点]と濡れていました。
 その時以来、そのつめたい人がこの胸を火のように燃やす。ひとたび愛人幸内を失ったお銀様には、たまらない肉のもだえがある。わが雇人であった幸内を、身も心も自由にしていたように、お銀様は、その人に、わが心も、わが身も自由にし、自由にさせていた。その持っていたつめたい残忍性が、お銀様を翻弄する時に、お銀様もまた、残忍そのものを翻弄する痛快心に駆られて、この女だけが人を斬ることを知って、少しもおそれなかったのです。最初の縁は躑躅ヶ崎の古屋敷。
「ああ、あの蝶の羽風《はかぜ》が……」
 悪夢の中に、どろどろにもだえたお銀様は、力かぎりその人にしがみ[#「しがみ」に傍点]つくと、夢が破れて、おどろいたのは自分の胸に重い物。いつか知らず傍らの宇津木兵馬をかたくだきしめていました。
 宇津木はそれを知らず、知ったお銀様は、どうしてもこの腕を離しともない心になりました。

         十

 信州|諏訪《すわ》の温泉、孫次郎の宿についた晩、お雪は久助と外のお湯へ行き、竜之助は、ひとり剃刀《かみそり》で面《おもて》を撫でておりますと、
「御免下さいまし、お土産《みやげ》をお召し下さいまし」
 
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