ホッと息をついて汗ばんだ面を拭うと、べっとりと濡れた髪の毛――その髪の毛は、女にも見ま欲しいたっぷりしたのを、グルグルと櫛巻《くしまき》にして、後ろへ束ねていました。
 西の空にかがやく二日月。暫く放心してその月影をながめているうちに、何に打たれてか身ぶるいしました。その時の、この人の形相《ぎょうそう》は、絵に見る般若《はんにゃ》の面影《おもかげ》にそのままであります。この人は月をながめているのではない、月を恨んでいるのです。
 この高処に立って、下りて行くべき何かの暗示を求めて得ざるが故に、二日の月に空しく恨みを寄せている。
「わたしは知らない」
 その恨みは女の声。その女はまさしくお銀様であります。
 黒衣覆面の男の装《よそお》いして、両国のお角の宅を出し抜き、こうしてここまで辿《たど》って来たお銀様。ここでまたも方角を失いました。
 ほどなく西北と覚《おぼ》しき方面の谷間《たにあい》にあたって一団の火光。
 お銀様はその火を見て喜びました。
 しかしながら、この一団の火光は、お銀様を喜ばす目的地方面の火ではなく、怖るべき山窩《さんか》の一団の野営ではないか。お銀様は、そんなことを一向に知りません。
 お銀様が進んで行く行く手の谷間から、カラカラと神楽太鼓《かぐらだいこ》の音が起りました。
 それを聞いたお銀様は、いよいよ里の近くなったことを知ってよろこぶ。
 あのはやし[#「はやし」に傍点]の音は、鎮守《ちんじゅ》の夜宮か、或いは若い衆連の稽古。その音《ね》をたよりに里へ出ようとして、かえって里へ遠くなることを気づかないのはぜひもありません。
 この神楽太鼓の音こそ、人を迷わすものでありました。その音の響き来《きた》ることを聞いて、この音の起るところを知らない囃子《はやし》がそれです。土地の人はそれを恐れていたけれど、お銀様は、そのいわれを知らない。
 当時、この附近の村里に住む人は、この太鼓の音を聞くと怖毛《おぞけ》をふるったものです。
「諸国里人談《しょこくりじんだん》」に曰《いわ》く、
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「武州相州の界《さかひ》、信濃坂に夜毎にはやし物の音あり。笛鼓《ふえつづみ》など四五人声にして、中に老人の声一人ありける。近在または江戸などより、これを聞きに行く人多し。方十町に響きて、はじめはその所知れざりしが、次第に近く聞きつけ、その村の産土
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