むらい」に傍点]だ。ことによると八州のお役人様かも知れねえ」
 そこで、前後の駕籠屋が二の足を踏みました。駕籠屋自身には暗いことはないが、お客のために心配があると見えて、
「旦那様、向うから、人が来るようですが、その人も唯の人ならよろしうございますけれど、このごろ、八州のお役人様が、この辺へお入りになっているそうですから、もしお役人だとすると、空《から》ならば言いわけが立ちますが、中身があってはお客様のために面倒と存じますから、どうか、ちょっとの間お下りなすってくださいまし、そうして暫くお隠れなすっていてくださいまし。ナニ、通り過ぎてしまえば何のことはねえのですから……」
 駕籠屋は駕籠を卸《おろ》して、中なる人にかく申し入れました。
 本来、ここは変則の道であることは前にもいった通り、小名路《こなじ》の宿から本式に駒木野の関所を通って、小仏峠から小原、与瀬へとかかって上野原へ行くのが順なのを、五十町峠からこの道を取るのは、厳密にいえば関所破りにはなるが、習慣の許すところにおいては、変通の道があって、濫用《らんよう》されない限りは見ぬふりのお目こぼしがあると聞く。しかし、役向の者が、役向を以てめぐる時分には、その正面を避けない限りは、事が面倒になるのは当然《あたりまえ》であります。
 多分これを心配して、駕籠屋は駕籠の中へ申し入れたものと見える。最初からほとんど無言で通して来た駕籠の中の客も、これには返答を与えないわけにはゆかないので、
「承知致した」
 そこで駕籠屋は急いで垂《たれ》をハネ上げると、駕籠の中から一刀を提げて出て来たのは、羽織袴の身分あるらしい覆面のさむらい[#「さむらい」に傍点]でありました。
「どうか、こちらの方へひとつお隠れなすっていていただきます」
 駕籠屋が案内した木立の中。駕籠屋どもはなにくわぬ面《かお》をして、ワザと悠々と空駕籠を荷《にな》って通り過ごすこと半町ほどのところで、期待した通りに、バッタリとであったのは予想の通り、供を一人つれた八州見廻りの役人であります。
「駕籠屋」
「はいはい」
「その駕籠は空であろうな」
「はい、仰せの通り空でございます、摺差《するさし》まで参りましての戻りでございます」
と言って駕籠屋どもは申しわけをする。それで許されるであろうことを予期して、唯々《いい》としてやり過ごそうとすると、
「それは幸いのこ
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