ていただきたいというわけでもなし、性質は性質としてただ、その手腕《うで》のあるところだけを賞めたのだから、あえて、お咎《とが》めを蒙《こうむ》る筋はあるまいと存じます」
「ああ、うるさい、それほど腕のあるのがお好きなら、観音様へおいでなさい、観音様には腕が千本ある」
「もう、腕の話はやめ……それはそうとしてお絹さん、お前も、恩怨《おんえん》の念は別として、ぜひ一度あの一座を見てお置きなさい、たしかに前例のない見物《みもの》、また後代ちょっとは見られないものですよ。相当の身分ある者が、微行《しのび》でいくらも見に来ています。昨日《きのう》はまたあれで思いがけない人を見出した、多分そうだろうと思ったが、見直そうとしている間に消えてなくなったが、あの男をあんなところで見かけようとは意外千万」
「誰ですか」
「あなたも御存じでしょう、番町の駒井能登守」
「エ?」
 不平満々で横を向いて絵本の空読みをしていたお絹が、この時、思わず向き直ると、福村が、
「甲府の勤番支配をしていた男、神尾主膳と喧嘩をしたとか、しないとかいう男……甲府をしくじっ[#「しくじっ」に傍点]てから切腹したとか、行方不明とかいわれていた駒井の姿を、ちらとあのとき見かけたので、拙者にはグッと思い当ったことがあるのだ。ははあ、女軽業の親方お角のうしろにはあの男があるのだな、して見ると、あの時分、お角が柳橋あたりで、専ら由緒《ゆいしょ》ありげな人物とあいびき[#「あいびき」に傍点]をしていたという噂が、ぴったりと当てはまる。虫も殺さぬような面《かお》をして、あれで駒井もなかなかの食わせ者だが、これを擒《とりこ》にしたお角の腕も確かに凄《すご》い。いやまた腕の話になって恐縮」
 福村は腕を枕にゴロリと横になる。お絹は相変らず絵本の空読みをしている。ところへ女中が手をついて、
「お客様でございます」
「誰か」
 福村が肥った身体を大儀そうに起すと、
「百蔵さんとおっしゃいます」
「ナニ、がんりき[#「がんりき」に傍点]が来たか」
 福村も起き上っておちつかない心持、お絹も思わず本をさしおく。
「そうら、腕のある話がハズミ過ぎたものだから、腕のない奴がやって来た――まあ仕方がない、来たものを帰れともいえまい、帰れといっても帰る奴ではない、かまわぬ、ここへ通せ」
 女中が出て行ったあとで、福村とお絹とが面《かお》を見合
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