・ラスキン氏のところへ聞きに行くわけにもゆかず、タンカ[#「タンカ」に傍点]は切ってみるものの、そこは女の身、ガラリと折れて寄生虫の四五人を上座に招じ、厚くもてなした上に、おみやげまでも調えて、帰る時は先へ廻って下駄まで揃えて帰したお角さんは、憎むべき人でもなんでもなくて、ほんとうに可愛い人ではありませんか。
こうして西洋大奇術は千秋楽となり、その翌日、与八とお松の一行は、沢井へ向って出立すると、まもなく、御老女はまた多くの供をつれて、上方《かみがた》へ出かける。それがすむと、集まるほどの浪士たちが、ずいぶん仰々しい勢いで、この屋敷を引払いました。
浪士たちの行くところは、無論、芝の三田の四国町の薩摩の屋敷でありました。
浪士たちが、半ば示威運動みたような勢いで、花々しくこの屋敷を引払うと、その晩のことに、火が起って、この屋敷を焼き払ってしまいました。
その火の起りについては、浪士たちが自分でつけて去ったのだという説もあれば、市中取締が焼き払ったのだという説もあって、どちらがどうだか、よくわかりません。
しかし、この屋敷一軒だけで食いとめたのはまだ幸いでありました。附近の人は、むしろこの立退きと、焼払いをよろこんだようです。これで相生町の名物が、一つなくなったわけですが、危険区域が移転したような心持で、近所の人が枕を高くしたのも、無理のないところがあります。けれども、原則からいって、一方に消滅したものは、必ず一方に増加するわけですから、次には芝の三田の四国町の薩摩屋敷に、また一層の危険分子が加わって、江戸市中の脅威になるという結果になるかも知れない。
実際、薩摩屋敷に集まるものの目的と行為は、江戸の市中を脅威したり、愚弄したりするために存在しているような形でありましたが、そうかといって、これを一概に、暴民暴徒の巣のようにいってしまうのは誤りです。また、こういうものを存在せしめた策士の横暴を、無条件に憤るのも当らないことであります。
薩摩屋敷へ浪士を集めたのは、西郷隆盛と後の板垣退助も関係していたということでありますが、徳川幕府を倒さねばならぬという志士浪人の頭に、同時にひらめくのは、いつも徳川と薩摩との仲をよくさせてはならないということでありました。
徳川家と薩摩とは、姻戚《いんせき》の関係もあったりして、どうかすると黙契が成立しそうになる。もしも薩
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