、さむらい[#「さむらい」に傍点]の問いに答えました。
「主人は留守か」
「はい」
「代稽古はいないか」
「おりませんでございます」
そこで、旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]は残り惜しげに道場のまわりをうろつい[#「うろつい」に傍点]ているから、
「まあ、お休みなさいまし、ただいまは誰もおりませんけれど、道場を御覧になるならば、あけてお見せ申しましょう」
と与八がいいますと、さむらい[#「さむらい」に傍点]はよろこばしげに、
「それは有難い、せっかくのことに道場の中を一見させてもらいたい」
与八が裏の戸口から入って、道場をあけてやると、さむらい[#「さむらい」に傍点]は草鞋《わらじ》をとって、道場の内部へ入って来ました。
「ははあ、なかなか結構なものだ」
と道場の内部の整っていることを見て、旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]は感嘆し、
「誰も代ってこの道場を預かるというものはないのか」
「どなたもございません」
「誰か、あの男の生立《おいた》ちを知っているものはないか」
「生立ちと申しますのは……」
「あの男の子供時代のことだ、いや、それよりも親の時代のことから……」
「左様でございます、みんなもう亡くなりましたね」
「あれの親がエラ[#「エラ」に傍点]物《ぶつ》であったというではないか。そうして酒を飲んだか」
与八は、変な物のたずね方をするさむらい[#「さむらい」に傍点]だと思いました。横柄《おうへい》なのは仕方がないが、エラ[#「エラ」に傍点]物であったというではないか、そうして酒を飲んだか、という尋ね方は、おかしいと思いました。このさむらい[#「さむらい」に傍点]の尋ね方では、エラ[#「エラ」に傍点]物はキット酒を飲むもののようにきめているらしい。
「大先生《おおせんせい》もお若いうちは、少しは召上りになったようでございますが……」
と申しわけのようにいうと、さむらい[#「さむらい」に傍点]は、
「少しではあるまい、うん[#「うん」に傍点]と飲んだろう、飲む時は七升ぐらい飲んだろう……」
「え……」
与八が、また返答に苦しみました。七升と相場をきめたのがおか[#「おか」に傍点]しいことです。六升飲んだか、七升飲んだか、そんなことは誰も知っているはずはない。知っているなら尋ねなくてもいいはずだ。
「それで竜之助はどうだ、これはあまりいけまい」
「え
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