にと、嘆息したものだと解釈して、夜学の先生を狼狽《ろうばい》させたこともあるのです。
 事実、七兵衛にとっては、世間の人のすべてが欲しがる金銀財宝は、無条件で手に入れることもできるし、また世間の人の羨ましがる名所ゆさんも、気の向くままにやってのけられるのだが、自分としての幸福や愉快は、そこには得られないで、こうして、あたり[#「あたり」に傍点]前の百姓として藁《わら》を打っているところに、無上の平和と愉楽のあることを思えば、世間の見るところと、求めるところと、本心のそれとは、みな逆にいっているものだとしか思われないのであります。
 こうして七兵衛は、自分の早足を載せる草鞋をつくっている。雨は小やみなく降っている。近隣はいと静かで、裏の娘が織る機《はた》の音さえ、かえって物わびしい風情を添えるばかりです。
 その機の音を聞くと、七兵衛は、あの娘も年頃になったが、間違いのないうちに、早くよいところへ嫁《かたづ》けてやりたいものだと思いました。
 そうして七兵衛は、その昔、自分が青梅街道へ捨てた子供のことまで考え出して、いま、無事に育っていれば幾つになると、草鞋をつくる手を休めて、その指を折ってみたりなどしました。
 無事に育って、日傭取《ひようとり》かせぎ[#「かせぎ」に傍点]でもいいから、こくめい[#「こくめい」に傍点]に働いてさえくれればよい、間違っても、おれのように足が早く生れついてくれるなと心配しました。
 非常な生活には、非常な警戒心が要るから、人を恋しがるような余裕は薄らぐのに、きょうはあたりまえのところへ置かれているから、あたりまえの人情が湧くと見えます。
「こんにちは……」
 さいぜん、機音《はたおと》がやんだなと思ったら、いま、裏口に訪れたのは、その若い娘の声にちがいないと思いましたから、七兵衛が、
「はいはい」
 膝の上の藁《わら》を払って立とうとすると、娘は早くも前の方へまわって来て、
「よく降りますね」
 傘をさして、手には小笊《こざる》を提げております。
「よく降るこってすね」
 七兵衛も相槌《あいづち》を打ちますと、
「おじさん、お薯《いも》をふか[#「ふか」に傍点]したから一つ持って来ましたよ」
「それはそれは」
 七兵衛はおおよろこびで、娘のさしだした小笊を受取ると、中にはおさつ[#「おさつ」に傍点]のふかし[#「ふかし」に傍点]立てが十
前へ 次へ
全144ページ中117ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング