ろで、なんでもないはず。それをお吉は、自分で取越し苦労をして、なんだかすっかり、自分がだま[#「だま」に傍点]されてしまったようにも思われてならない。
「お風呂が沸きました」
いつもならば、二つ返事でよろこんで風呂場へ飛んでくるのに、今日は、
「あ、そうか、まあ後にしよう」
といった神尾の言葉までが、いやによそよそしく、冷淡を極めているように思われ、お吉は、いっそ、ここを逃げ出して、国へ帰ってしまおうかとさえ、その時は思いました。
ぜひなく、お吉は引返して、台所の方へ廻り、夕飯の仕度を働いているうちに、表の方に人声がありましたので、ハッとしましたが、その時、進んで返事をしたのは、珍しく主人の神尾の声でありましたから、お吉が、またも気を揉《も》みました。いつも人が来ても、隠れるようにして応対などをしたことのない人が、今日に限ってあの返事――さてはと思うと、お吉は立つ気にもなりません。ワザと腰を重く構えていると、やや暫くあって、廊下のところで、
「風呂がわいているそうだから、そなた入ったらよかろう」
と神尾の声。
「それは有難うございます。では、御免を蒙《こうむ》りまして……」
というのは、ある女の声。
「そこを、ずっと突き当って行くと開き戸がある、そこが風呂場だ」
神尾が口で案内すると、女は心得たもので、ずっと教えられた通りに打通り、やがて帯を解く音。早くも風呂の蓋を取って、やわらかに湯を掻《か》きまわす音まで聞えましたから、お吉は躍起《やっき》の心持で、思わず台所を立って、そっと忍び足に風呂場の羽目《はめ》からのぞいて見ますと、油の乗った年増ざかりの女の肌。
お吉がふるえた時に、廊下を渡ってくる神尾の声、
「お絹、風呂加減はどうじゃ」
二十二
風呂から上ったお絹が、まだ持ち運んだ荷物の散らかっている一間の中で、鏡台に向って、髪を直していると、いつか、そのうしろに立って、障子の外からのぞいている神尾主膳。
なんともいわないで、ただお絹の後ろから、鏡にうつる姿をながめている。お絹もまた、なんともいわないで、念入りに髪をいじっている。
鏡にうつるお絹の面《かお》に、わざとするような恥かしさ。頬から首筋、後ろへまわした手首までが、乳のように白い。
「お前は、いつになっても年をとらないね」
と神尾がいう。
「こんなに、お婆さんになってしまい
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