表御門をおあけ申しますから……」
絶えて久しい主人が、こうして夜陰《やいん》にブラリと尋ねて来たものですから、一学も最初は妖怪変化《ようかいへんげ》ではないかとさえ驚きあやしみ、且つ喜びました。
飛ぶが如く表門へ駈け出して、門を開き、主人を案内はしたが、それを堂々と表玄関へとおすことができず、自分が今まで内職をしていた長屋の中へ、ひとまずお連れ申さねばならぬ運命のほどを悲しみました。
駒井甚三郎は、さのみ悲しむ色もなく打通って、
「勉強しているな」
「はい、おかげをもちまして」
一学は何ともつかず返事をして、取って置きの敷革《しきがわ》を出して主人にすすめる。
「殿様、これは夢ではございますまいかと、私は存じまするが、夢ならば、さめないうちにおたずね申し上げなければなりませぬ。ただいままで殿様には、どちらにおいであそばしました、そうして何故に、ただいままでお便りを下さいませんでしたか」
一学は両手をついて、主人にたずねました。
「便りをしないことは悪かったが、便りをしないことが自他のためであったのだ。それはそうと変ることはなかったか……と尋ぬるも異《い》なものだが……」
「奥方は京都へお越しになりましたことを、御存じでいらせられますか」
「うむ……あれの病気はどうじゃ」
「御病気は大抵、お癒《なお》りになったそうでございます」
「そうか……」
「殿様」
と一学は膝を押しすすめて、
「私は人情の表裏反覆というものの甚だしいことを、今更のように学びました、何かにつけて驚き入ることばかりでございます」
一学は眼に涙をたたえて昂奮すると、駒井はしんみりと、
「いいや、みんなわしが悪いのじゃ、お恥かしい次第だ、この心が出来ていないばっかりに、わが身を誤り、家を亡ぼし、親族には屈辱を与え、お前たちにも苦労をさせてしまった、つくづくとこの身の愚かさが身にこたえる、ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」
「恐れ入りまする、そういうつもりで私はただいまの一言《ひとこと》を申し上げたのではござりませぬ。一時は私も、殿様のお心がわかりませんでしたけれど、今となりましては、その考えが変りました。女が悪いのでございます、罪は女にあるのでございます、殿様がお悪いのではございませぬ」
「何をいっているのだ、そういう話は、もうよそうではないか……実は、こうやって急に思い立って尋ねて来たのは、少々
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