よけいなことを喋《しゃべ》ったというだけにとどまるが、このよけいなお喋りのために、お角は大事の金主元を失い、これからのてちがいを心配してみると、この野郎の面《つら》が癪《しゃく》にさわってたまりませんから、
「ホントに、おっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]ほど怖いものはありゃしない」
と言って、その横面をまた一つピシャンと食らわせたものですから、金助は生ける色がなく、お角の手が弛《ゆる》んだのを幸いに、丸くなって逃げ出し、梯子段をころげ落ち、土間へ辷《すべ》り出して、下駄を突っかける暇もなく、両手でひっつかんで、格子戸を押開け、はだし[#「はだし」に傍点]で外の闇へ逃げ出してしまいました。下にいたお梅は胆をつぶして、
「あらあら、金助さん、わたしの下駄を片一方持って行ってしまって……」
 これは笑いごとではない。金助はあわてて自分の穿いて来た後丸《あとまる》の下駄と、お梅の大事にしていたポックリ[#「ポックリ」に傍点]を半分ずつ持って逃げ出してしまったものだから、お梅は泣かぬばかりに口惜《くや》しがって、あとを追っかけてみましたけれど、どこへ行ったか影さえ見えません。
 これはお梅にとっては一大事で、南部表にしゅちん[#「しゅちん」に傍点]の鼻緒。鼻緒にも、蒔絵《まきえ》にも、八重梅が散らしてある。当人も自慢、朋輩《ほうばい》も羨ましがっていたポックリ[#「ポックリ」に傍点]を、半分持って行かれたから、口惜しがるのも無理はありません。みんな持って行かれたわけではない、半分は残っているのだけれど、下駄の半分ばかりは、残されたところで有難がるわけにはゆかない。
 二階ではお角がおかしくもあるし、腹も立って、それでも、あの野郎、神尾の殿様が来るとか来ないとか、頼まれた用事もあってやって来たらしかったが、それをいい出す暇もなく逃げ出してしまった。こちらもなお聞きただしたいこともあったのに、かんしゃく[#「かんしゃく」に傍点]紛《まぎ》れにとっちめて、薬が利《き》き過ぎた。しかし、どのみち二三日たてば、ケロリとして出直して来る奴だと思いました。
 おかしかったのはその翌日の朝、両国橋の女軽業のおちゃっぴイ[#「おちゃっぴイ」に傍点]の一人が目の色をかえて、お角のしもたや[#「しもたや」に傍点]へ飛び込んで来て、
「親方、大変です、梅ちゃんが心中をしてしまいました」
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