ると思い直して、お雪は次へ行って帯を解こうとすると、廊下にバタバタと人の足音があって、
「さきほどはどうも、失礼を致しました」
と障子をそっとあけたのは、以前、お雪のいない時に物売りに来たなまめいた女です。
「何か御用?」
 帯を解きかけたお雪がこちらを見て返事をすると、女もお雪を見て、ちょっとはにかんで、
「あの――さきほど、そこいらに櫛《くし》が落ちてはおりませんでしたろうか。いいえ、つまらない櫛ですから、どうでもいいのですけれど……」
「あ、櫛ですか、落ちていました」
 お雪はほどきかけた帯をちょっ[#「ちょっ」に傍点]と締め直して、
「落ちてはいましたけれど、お気の毒さま、こんなに割れていましたよ」
「まあ」
 お雪が行燈《あんどん》の上にさしおいたお六櫛の二つに割れたのを取って見せると、
「おやおや……わたくしのそそうですから仕方がございません」
 女はしょげて、二つに割れた櫛を受取り、
「どうもお邪魔を致しました、お休みなさいませ、よろしく」
といって竜之助の寝ている方を横目でチラリと見て、障子を立てきって出て行きました。
 ちょっといき[#「いき」に傍点]がった髪の結いよう、お化粧、着こなし、緋縮緬《ひぢりめん》の前掛、どう見ても湯女《ゆな》気分の色っぽい女。お雪はちょっと眩惑されて憎らしい気分がしましたけれど、そこになんとなく人なつこいものの残るのを、さぐってみると、どうも殺された姉に似たところがある。気のせいか知らないが、姉の持っていた、人ずきのする懐かしみをかなり多量に持っている。
 今の女が、わたしのいない時にこの座敷へ物売りに来て、そうして櫛を落していった。その櫛が二つに割れている。
「ああ、この女もまた姉のように殺されるのではないか」
 忽然《こつねん》として起った何の拠《よ》りどころもない暗示。こんな暗示に襲われた自分を、お雪は戦慄《せんりつ》しました。
 この女が廊下でバッタリ、仏頂寺弥助に出逢ったのが運の尽きであります。
 弥助は、いや[#「いや」に傍点]がる女を無理に自分の座敷へ連れ込んでしまいました。しかもその座敷には新たに二人の客があって都合四人、酒興ようやく酣《たけな》わなるの時でありました。
 女がしきりに、あや[#「あや」に傍点]まるのを、かれはどうしても聞き入れない。女はついに泣き声になっても、どうしても、許すことをしな
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