へ置いて、机竜之助は枕につきました。
「ここから風が入るといけません」
お雪は竜之助のために、枕の間の夜風を、夜具の襟で埋めてしまおうとした途端、ゾッとして唇の色まで変りました。
しかし、べつに夜具の中に鬼も蛇《じゃ》も棲《す》んでいるわけではない。蝋《ろう》のように白い竜之助の寝顔を見た時、はじめて、「姉を殺したのはこの人だ」と言った弁信法師の言葉が、ハッと思い当ったからでしょう。
弁信法師のいうことは、上《かみ》は碧落《へきらく》をきわめ、下《しも》は黄泉《こうせん》に至るとも、あなたの姉を殺したものがこの人のほかにあるならばお目にかかる――それは途方もない出放題《でほうだい》。
弁信さんは、時々ああいうことをいい出すからいけないのだ。
もし、あの弁信さんが今晩ここにいたら、あの人だから、何をいい出すまいものでもない。「今晩、九つ半過から、この道を通って諏訪の明神へおまいりをなさるのは、いにしえ[#「いにしえ」に傍点]のお万殿ではありません、それは殺されたあなたの姉さんです」――こんなことをいい出すかも知れない。どうも、そういう気がしてならない。なお念を押して、「私は血まよってはおりません、私のいうことが本当でございます」と付け加えるかも知れない。
いい時はいいが、悪い時は、弁信さんのいうことは一から十まで気になる。ああ、悪いことを思い出した。
そう思うと、しんしん[#「しんしん」に傍点]と淋しくなって、ほんとうに殺された姉さんが、ほどなくこの街道を通るように思われてならない。見ていればいるほどこの人が、ほんとうにわたしの姉に手を下したもののように疑われてならぬ。
罪という罪は多いのに、夫にそむいて他の男に許した女の運命のみが、なぜそのように酷《むご》いのだろう。わたしには、どうしてもお万殿がそれほどの悪人とは思えない。信長という人の方が、どのくらい無慈悲な、極悪《ごくあく》な男だか知れない――わたしの姉さんだってその通り、優しくって、如才《じょさい》がなくって、うわべだけでない親切気のあった人――ついした間違いが、死を以てするよりほかに償《つぐな》いがないとは、なんという情けない女の運命。
そんなことを考えれば考えるほど、気が滅入《めい》って、あらぬ人に疑いをかけてみたがったり、世間を呪《のろ》いたがってくる。全くこんな晩には早寝をするにかぎ
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