渋《なんじゅう》でも、人目は安心でございます」
「いや、なにかとお世話になるばかりで、御恩報じもできないことを痛み入ります」
と竜之助は、焚火に手をかざして、その蒼白《あおじろ》い面に、いささかながら感謝の閃《ひらめ》きを見せると、女は、
「いいえ、どう致しまして、わたくしこそ、命を助けていただいた御恩が返しきれないのでございます」
「いつ、拙者が人の命を助けたろう」
「お忘れになりましたのですか」
 女はその言葉に呆《あき》れたらしい。
「そなたに助けられた覚えはあるが、そなたを助けた覚えはありませぬ」
「まあ、ほんとうにお忘れになりましたのですか、あの、巣鴨の庚申塚のことを」
 この時、女は、病気のせいでこの人の記憶が鈍《にぶ》ったのではないかと、まじめに疑いはじめたが、竜之助は、
「覚えていますとも……」
「それごらんなさいませ。あのことがなければ、わたくしはどうなっていたか知れません、いいえ、わたくしはあの時に殺されていたのです、それを、あなた様に助けられましたので」
 その時の思い出が、女を堪えがたい羞恥《しゅうち》と感謝とに導く。
「そのとき助けたのは、拙者ではない、助けようと思ったのも拙者ではござらぬ。もしその時、そなたたちを助けようとした人、助け得た人があったとすれば、それは弁信といって、安房《あわ》の国から出た口の達者な、やはり眼の見えない小坊主の働きじゃ。拙者は人を助けはせぬ、助けようともしなかったのみならず……」
「いいえ、もうおっしゃらなくてもよろしうございます、なんとおっしゃってもわたくしは、現在あなた様に助けられているのですから」
 女はひとり、それを身にも心にも恩に着ているのであった。人の過《あやま》ちは七度《ななたび》これを許せと、多数の私刑者の中に絶叫して歩いたのは、竜之助の言う通り、安房の国から出た弁信という口の達者な、目の見えない小坊主であった。しかるにその人は感謝を受けないで、この人がひとりほしいままに女の心中立《しんじゅうだ》てを受けている。怨み必ずしも怨みではない、徳必ずしも徳ではない。外では雨の音。
「さて」
と刀を取って引き寄せようとしたのは、待たしてある駕籠のことを慮《おもんぱか》ったのでしょう。
「まあ、お待ち下さいませ、まだよろしうございます、かまいませんです、みんな家の者同様の人たちなんですから」
 最初には、上へあがることをさえ憚《はばか》った女が、今はかえって名残りを惜しんで、立たせともなき風情《ふぜい》であります。
「ああ、そうでした、わたくしはいつぞやお約束の餞別《せんべつ》を、あなたに差上げるつもりで持って参りました」
と言って、女は立って扉を押し、
「駕籠屋さん、あの刀をちょっとここへ貸して下さいな」
 やや離れた行衣場《ぎょうえば》に、同じく焚火にあたり、無駄話をしていた二人の駕籠屋を呼びます。

         三

 女は駕籠屋《かごや》から刀箱を受取って、それを改めて竜之助の前に置いて、
「あなた、この刀には、なかなか因縁《いんねん》があるのでございます」
「何という人の作か、それを聞いておきましたか」
といって竜之助は、箱の紐に手をかけてほどきはじめました。
「ええ、銘がございますそうです」
「在銘ものか。そうしてその銘は?」
 箱の中から萌黄《もえぎ》の絹の袋入りの一刀を取り出して、手さぐりで、その紐を払うと、女は燭台《しょくだい》をズッと近くへ寄せて、
「どうか、よくごらんなすって下さいまし、こういうものばかりは見る人が見なければ……」
「その見る人が、この通りめくらだ」
 袋の中から白鞘物《しらさやもの》を取り出しますと、女は、
「それでも、心得のあるお方がお持ちになればちがいます」
といって、今更、燭台を近く引き寄せたことの無意味を恥かしく思います。
「重からず、軽からず、振り心は極めてよい」
「手入れの少ないわりには、さびが少しもついておりませぬ」
「なるほど。そうして刃紋《はもん》の具合はどうじゃな」
といって竜之助は、鞘を払った刀を、女の声のする方へ突き出して見せました。
「刃紋とおっしゃるのは……」
 女はこころもち身を引きかげんにして、この時はじめて、傍近く引き寄せた燭台の存在が無意味でないことを知りました。竜之助の面《かお》と、突き出された白刃とを、蝋燭の光で等分にながめて、返事にさしつかえていると、
「刃紋とは、鍔元《つばもと》から切尖《きっさき》まで縦に刃の模様がついているはず、その模様が大波を打ったように大形についているのもあれば、丸味を持った鋸《のこぎり》の歯のように細かくついているのもある、或いは杉の幹を立てたようなのが真直ぐに幾つとなく並んでいるのもある、のたれ[#「のたれ」に傍点]というのもある、美しい乱れ形になっ
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