》の邸を叩きます。
猿渡氏の家は、兵馬にとっては旧知の関係があって、兵馬の不意の来訪を喜び、それからそれと話が尽きませんでした。
そのうちに、このごろは世の中が物騒で、この界隈《かいわい》も穏かでないから、今この社務所でも、若い者だの、剣術の出来る人だのを十余人も頼んであって、警護を怠らないということもありました。六所明神は所領の高も少なくはない。猿渡氏もなかなか裕福を以て聞えた家ですから、その用心ももっともと思います。
風呂に入り、夕飯も済み、いざ寝ようという場合に、兵馬はちょっと宿《しゅく》へ用足しに行って来るといって、邸を出て夜番の詰所になる社務所へ、下男に案内をしてもらいました。
なるほど、そこには火鉢を囲んで、七八人の人が集まって雑談に耽《ふけ》っています。下男の紹介で兵馬は一座に仲間入りをする。一座の中の浪人者のようなのが得意になって、
「いや、その前の晩じゃ、拙者が、陣街道を三千人まで来た時分に、河原のまん中に当って異様の物の音がする、はて不思議と耳をすましていると、それが琵琶の音《ね》じゃ」
この浪人者は、むしろ新来の兵馬に聞かせるつもりで、兵馬の横顔を見ながら語り出でました。
「へえ、河原で琵琶が聞えましたかね」
とそれにあいづちを打ったのは兵馬ではなく、力自慢で頼まれた若い者。
「たしかに琵琶が聞えたよ、聞ゆべからざるところで琵琶の音がしているから、拙者も不審に思って、立ちどまって耳を傾けている間に、例の人馬の音で、この町が物騒がしくなったから急いで駈けつけたのだが、なんにしても、あの陣街道は鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》というところである」
「鬼哭啾々というのは何です」
誰かが抜からず反問したのを、浪人は無雑作に、
「それはお化けの出そうなものすごいところという意味だ。何しろ、分倍河原《ぶばいがわら》はむかし軍配河原といって、何十何万の兵士が火花を散らして合戦をしたそのあとだ、陣街道の首塚と胴塚、それに三千人というのは、元弘より永享にかけて討死した三千人を葬ったところだから、今でもその魂魄《こんぱく》が残って遊びに出る。あの琵琶の音も、たしかに魂魄の致すところに相違ない、こちらに不意の騒動が起ったため、よくその根原を見届けなかったのが残念じゃ」
兵馬は、それを聞いてしまってから、この座を立って寝に行くかと思うとそうではなく、まもな
前へ
次へ
全169ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング