飛び上ったのは、よくよく胸にこたえるものがあったと見えます。
「ええ、出羽の庄内で十四万石、酒井左衛門尉様のお手がついたお部屋様を、悪者が盗み出して、そうして、この甲州街道を逃げたということですよ」
「やい、ばかにするな、そのことならおれが知ってるんだ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は眼の色を変えて飛び出そうとするから、渡し守のおやじが呆気《あっけ》にとられて、
「親方、お前さん、それを知っておいでなさる?」
「知ってるとも。知らなけりゃ、どうしてこんなことが聞いていられると思う、ばかばかしいにも程があったもんだ、昨夜《ゆうべ》もそれを考えて、ひとりで思出し笑いをしていた奴はどこにいる、先手を打たれて眼の前で騒がれながら、いい心持でどぶろく[#「どぶろく」に傍点]を飲んでいりゃあ天下は泰平だ、面《つら》を洗って出直さなけりゃあ、とても明るい日の下を歩けるわけのものじゃねえ」
 こういって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は道中差をつき差すと共に、小屋の外へ飛び出して、いきなり多摩川の流れで、ゴシゴシと自分の面《かお》を洗いはじめました。

         十一

 やや暫くあって、村山街道の方面から、八幡太郎の欅並木《けやきなみき》を、なにくわぬ面をして、府中の町へ入り込もうとするがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を見ることができます。
 多摩川べりから大廻りに廻って、宵に逃げ出したあぶないところへ、再び足を踏み入れようとするこの男の心の中は、渡し守から聞かされた昨夜の事件の内容で、自分ながら呆気に取られると共に、むらむらと例によっての功名心に油が乗り、わざわざこうして取って返したもので、取って返した以上は、必ずしるし[#「しるし」に傍点]を挙げて、我ながら気の利いて間の抜けた昨夜のしくじり[#「しくじり」に傍点]を取り返そうという自信のほどが、鼻の先にうごめいている。
「いけねえ、草鞋《わらじ》が切れちゃった、幸先《さいさき》がよくねえや、ちぇッ」
 八幡太郎の欅並木のとっつきで、草鞋のち[#「ち」に傍点]の切れたのを舌打ちして忌々《いまいま》しがったが、まだ夜明け時分ではあり、近いところに店もなし、当惑して見廻すと、馬頭観音のささやかなお堂の前につるしてあるのが奉納の草鞋です。
「これ、これ、これを御無心申すことだ」
といって百蔵は、堂の前へや
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