傍点]をがんりき[#「がんりき」に傍点]と見込んで、けしかけるなんぞは隅には置けねえ」
 しきりに南条なにがしが口頭に上ってくるのは、その以前、相模野街道で南条なにがしから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵がこういって唆《そその》かされたことがある、「よろしい、それでは貴様に知恵をつけてやろう。ほかでもないが、相手は出羽の庄内で十四万石の酒井左衛門尉だ、今、江戸市中の取締りをしているのが酒井の手であることは貴様も知っているだろう、我々にとって、その酒井が苦手《にがて》であることも貴様は知っているだろう、酒井は我々の根を絶ち、葉を枯らそうとしている、我々はまたそこにつけ込んで、酒井を焦《じ》らそうとしている、その辺の魂胆《こんたん》はまだ貴様にはわかるまい、わかってもらう必要もないのだが、貴様の今に始めぬ色師自慢から思いついたのは、酒井左衛門尉の御寵愛《ごちょうあい》を蒙《こうむ》った尤物《ゆうぶつ》が、いま宿下りをして遊んでいることだ、それは佐内町の伊豆甚《いずじん》という質屋の娘で、酒井家に屋敷奉公をしているうち、殿に思われて、お手がついて、お部屋様に出世をして、当時はある事情のもとに宿下りの身分であるという一件だ、その名はお柳という。これだけのことを聞かせてやるから、あとは貴様の思うようにしてみろ」――こういって猫の前へ鰹節を出したのが、今いう、その南条先生なるものの言い草である。この南条という男、ある時は慨世の国士のように見え、ある時はてんで桁《けた》に合わないことを言い出して、掠奪や誘拐を朝飯前の仕事のようにいってのける。勧めるのに事を欠いて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ[#「やくざ」に傍点]者にこんなことを勧めるのは、油紙へ火をつけるようなもので、ただでさえも、そういうことをやりたくて、やりたくて、むずむずしている男に向って、こういって筋を引いたから堪ったものではない。「先生、がんりき[#「がんりき」に傍点]を見込んで、そうおっしゃって下さるのは有難え」――手を額にして恐悦《きょうえつ》したのはつい先頃のことです。今や、その仕事にとりかかろうとして、しきりに思出し笑いをしているところへ、夜前の渡し守が帰って来ました。
「親方、お留守を有難うございました、いやはや、昨晩は話より大騒ぎでしたよ」
 その時がんりき[#「がんりき」に傍
前へ 次へ
全169ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング