「茂ちゃん」
「何だエ」
「淋しいねえ」
「ああ」
「何か、音が聞えるよ」
「何の音が」
「轡《くつわ》の音が聞えるよ」
茂太郎は何の音も聞くことがないのに、弁信は聞き耳を立てて、撥《ばち》を取り直そうとしません。
「轡の音が聞えるよ」
「どっちの方から聞えるの」
「東の方から」
「嘘だろう、東の方からじゃない、土の下から聞えるんだろう」
「いいえ、東の方から、此方《こっち》へ向いて轡の音が聞えるのよ」
「弁信さん、そりゃお前の気のせいだろう、ここは昔の古戦場だというから、昔、戦《いくさ》をして死んだ軍人《いくさにん》の魂が、この河原の下に埋まっているんだろう、その軍人や、馬の魂が、お前の耳に聞えるのに違いない」
「なるほど、そう言われてみると……この川の下流にあたって、新田義興《にったよしおき》という大将が殺された矢口ノ渡しでは、どうかすると馬の蹄《ひづめ》の足音が不意に聞えて、竜頭《りゅうず》の甲《かぶと》をかぶった大将の姿が現われるということを聞きました。茂ちゃんの言う通り、いま聞えるあの轡《くつわ》の音も、昔ここで死んだ軍人の怨霊《おんりょう》の仕業《しわざ》かも知れない、それが土の下から響いて来るのを、あたしの空耳《そらみみ》で東の方に聞えるのかも知れない」
弁信はこう言いました。自分の耳を疑ったことのない弁信が、かえって荒誕《こうたん》な怨霊説に耳を傾けるのが迷いでしょう。
「そうだろう、でも、お前に聞えるものなら、あたいにも聞えそうなものだねえ」
「お待ちよ……何か、わたしは気になってならない」
弁信は見えぬ眼に四辺《あたり》を見廻そうとしたが、四辺を見廻したところで、前に言う通り、ややもすれば弁信の身の丈よりも高い月見草が、頭を出している分倍河原に過ぎません。
「弁信さん、あたいが悪かった、たしかに聞えるよ、たしかに、あたいの耳にも馬の足音が聞えて来たよ」
その時坐っていた茂太郎が、席を立ち上りました。
子供とはいえ……、立ってみれば月見草よりも背が高い。立って、そうして茂太郎が前後と左右と、遠近と高低とを見廻したけれど、月の夜の河原に見咎《みとが》め得べきなにものもありません。
「ええと……一つ……二つ……三つ……四つ……」
弁信は坐ったままで、小声で物の数を読みはじめました。
「何を言っているの、弁信さん」
「五つ……六つ……七つ……
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