あまり夜ふかしをしてもならん、ドレ、拙者もお暇《いとま》と致そうか」
 こういって主膳は立ち上ると、腰がよろよろとしました。
「お危のうございます」
「帰る、帰る、どうしても帰る」
 主膳は外を見ると、月がもう落ちてしまって闇です。お吉は提灯《ちょうちん》をつけて主膳を送りに出ました。
 千鳥足で外へ出た神尾主膳を、提灯をつけて送り出したお吉。山門を入ると両側は巨大なる杉の木。宏大なる本堂の建物を左にして、書院の方へ進んで行くと、神尾はむらむらと何かに刺戟されました。
 この男には、烈しい酒乱の癖がある。ひとたびそれが兆《きぎ》した時は、われと人とをかえりみるの余地のないことをお吉は知りません。そうして油坂の石段の下まで来ると、そこから急に右へまわり出しましたから、お吉が、
「殿様、どちらへおいでになりますか」
「お前の知ったことではない」
 ずんずん横へ外《そ》れて行く神尾主膳。お吉は見ていられないから、追っかけるようにして、
「お危のうございます」
「お前の知ったことではない」
 どこへ行くかと思うと、神尾は勝手を知った庭を通って、大中寺|名代《なだい》の七不思議の一つ、「開《あ》かずの雪隠《せついん》」の前へいって、その戸の桟《さん》へ手をかけて、それを引開けようとする様子ですから、お吉が、あなや[#「あなや」に傍点]と驚きました。
「殿様、何をなさいます」
「お前の知ったことではない」
「殿様、それをおあけになってはいけませんでございます」
 お吉は神尾主膳の前に立ち塞がって、その手を抑えようとしました。
 ここにいう大中寺七不思議の一つ「開《あ》かずの雪隠《せついん》」というのは、昔、佐竹の太郎が皆川山城守に攻められて、この寺へ逃げ込んで住職に救いを求めたが、住職が不在で留守の者が、これを聞き入れなかった。佐竹はその無情を憤《いか》って、乗って来た馬の首を寺の井戸の中に斬り落し、自分は大平山の上にのぼって自殺して果てた。その後、佐竹の奥方が夫君はこの寺に隠れているものと信じて、密《ひそ》かにたずねて来て見ると、右の始末で敢《あえ》なき最期《さいご》を遂げてしまったということが明瞭になると、そのままこの雪隠の中へ入って自害を遂げてしまった。その後、どうもこの雪隠に怨霊《おんりょう》が残ってならぬ。何かと祟《たた》りがあって不祥のあまり、錠を卸して人の出入りを
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