最初から手を触れないでいた神尾、
「ここはぜひとも切らなければ」
と言って一石、その手が思わず盃にさわる。
我知らず唇のところまで盃を持って来て、はじめて気がつき、
「あっ」
と苦い物でも噛んだように、下へさしおいて、
「ともかく、切った以上は繋《つな》いでおく」
隠居は考え込んで、
「弱りましたな」
「これで局面が一変」
神尾は喜んで、再びその手が無意識に盃の上へ下りる。
「さあ」
と隠居が、いたく考え込んでいる。得意になった神尾が、知らず識らず盃を唇のところへ持って来て、
「あっ」
また熱い物でも触れたように、慌《あわ》てて下へ置く。
「そうなりますと、絶体絶命、劫《こう》に受けるより手がなくなりました。上手《うわて》に向っての劫は大損でございますが、仕方がありません」
隠居は窮々《きゅうきゅう》として受身である。神尾は劫を仕掛けて、いよいよ有利と見える。もはや、充分に死命を制したつもりで得意になると、三たび、その手が盃に触れる。唇のところまで持って来て、
「いや、これは違った」
苦々しい面《かお》をしていると、気がついた隠居が、
「これはこれは、御酒《ごしゅ》が冷えましたでございましょう、お熱いのを換えて差上げましょう」
忙がしい中で手を打って女中を呼んで、燗《かん》の代りをいいつけて、
「では、これだけいただきましょう」
「それは相成らん」
「拙者はこっちの方を少しばかり」
「どう致しまして」
「ここなら頂けますか」
「なかなか以て」
「左様ならば、ホンの少々だけ」
「御免を蒙ります」
「これはこれは。あれも下さらない、これも下さらない。しからばホンの三目だけ」
「その三目をやっては全体が活《い》き返る。さあその次は」
「ごようしゃを願います。左様ならばこれだけ」
「以てのほか……しかしながら、これで拙者の方の劫種《こうだね》が尽きたわい、あれとこれと交換では割に合わぬ、じゃと申して、もうほかには種がない、こりゃ劫負けかな」
「そのくらいは負けていただかないと碁になりませぬ」
「さあ、これでまた局面が逆転した、悪かったな」
神尾は当惑して暫く考えていると、またしてもその手が盃に触れる。
「これでホッと一息致しました」
隠居はホッと息をついて盃を取り、飲みぶり面白く乾《ほ》すと、
「さあ、難石《なんせき》だ」
といって神尾もうっかり唇まで持っ
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