しかしこの時は、悪魔は来ないで、ムク犬がやって来ました。
 お松が立って行ったあとで、米友は、
「ムク」
 うるみ[#「うるみ」に傍点]きった大きな眼と、真黒い中で、真黒い尾を振る姿を見て、
「ムク、手前は強い犬だったなあ、昔もそうだったから今もそうだろうが、強い犬になるにゃあ、飯をうんと食わなくちゃ駄目だぞ」
「…………」
「飯を食わなけりゃあ痩《や》せちまあな、痩せちまっちゃ強い犬にはなれねえぞ、しっかりしろよ」
 身を屈めた米友は、手を伸べてムク犬の首から咽喉《のど》を撫でてやり、
「宇治山田にいる時はなあ、手前がほんとうに怒って吠えると、街道を通る牛や馬まで慄《ふる》え上って、足がすく[#「すく」に傍点]んじまったものだ。こっちへ来ても、おそらく手前ほどの犬は無かろう。たとい、おいらが附いていなくたって、お松さんという人が附いている、お松さんはほんとうに親切な人なんだから、手前はよくお松さんのいうことを聞いて、飯を食わなくちゃいけねえぞ」
「…………」
「意久地《いくじ》なしめ、痩せてやがら。ホントに手前はいつまでも強い犬でいねえと、おいら[#「おいら」に傍点]が承知しねえぞ。遠吠え専門の痩犬は何万匹あろうとも、ほんとうに強い犬というのを殺すのは惜しいなあ、手前もちっとは自分の身が惜しいということを知れ」
 米友の声がうる[#「うる」に傍点]んできた時、お松が戻って来て、
「友さん、それでは、どうかこっちへ来て下さい」
 見事なその一間、絹紬《けんちゅう》の夜具に包まれて、手厚い看病を受けているお君の身は、体面においてはさのみ不幸なものとはいわれません。
 米友が来たと聞いて、その美しい、衰えた、淋《さび》しい面《おもて》に、このごろ絶えて見たことのない晴々した色が浮びました。
「お君さん、友さんが来ましたよ」
「どうも有難う」
 力のない身体《からだ》を向き直すつもりで、鉢巻をした面《かお》だけをこちらへ向けると、米友は無言のまま、そこへ坐り込んでいます。
「友さん、よく来てくれましたね」
「うむ」
「わたしはね、頭の方は癒《なお》りましたけれど、身体はもう駄目なのよ」
「…………」
 その時に、お松が米友に代っていいました、
「そんなことはありませんよ、産後ですもの誰だって……」
「いいえ……」
 お松も信じては力をつけられない。お君も気休めの言葉
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