かって、命を落したものが二千人からあるを持ち出して、始末におえ[#「おえ」に傍点]ないから、まあほうっておいて、気ままにさせるよりほかはないのです。
「道六や」
 そこで代診の道六というのを膝近く呼び寄せて、留守中|万端《ばんたん》の心得をいって聞かせ、今や、その旅行の日程に苦心中であるが、東海道筋は先年、伊勢参りの時に往復しているから、今度はひとつ趣を変えて、甲州街道を取ろうか、或いは木曾街道を選ぼうかと、道中記と首ッ引きの結果、距離と日数に多少の費《つい》えはあるが、変化の面白味からいって、木曾街道を取り、途中から名古屋へ廻るということに決定しました。
 それがきまると、次の問題は道連れの一件であります。これにはさすがの先生も、ハタと当惑しました。
 一人旅はいけない。そうかといって、野幇間《のだいこ》の仙公には懲《こ》りている。薬籠持《やくろうもち》の国公は律義《りちぎ》なだけで気が利《き》かず、子分のデモ倉あたりは、気が早くって腰が弱いからいけない。知己友人に当りをつけてみたところで、オイソレと同行に加わるような閑人《ひまじん》は見つからない。旅の話相手にもなり、相当に気も利いて、慾をいえばこの際のことだから、武芸の片端《かたはし》を心得て、用心棒を兼ねてくれるような男でもあれば申し分ないが、そうは問屋で卸さない。さすがの道庵先生も、この人選にはことごとく頭を痛めているところへ、
「先生、お客様でございます」
「誰だ」
「玄関へ米友さんとおっしゃる方がおいでになりました」
「ナニ、米友が来た! 鎌倉の右大将米友公の御入り! 占《し》めた」
 この際、天来の福音に打たれたように、道庵先生が躍り上りました。

         二十一

 甲州上野原の報福寺、これを月見寺ととなえるのは、月を見るの趣が変っているからです。
 上野原の土地そのものは、盆地ともいえないし、高原ともいいにくい山間《やまあい》の迫ったところに、おのずから小規模のハイランドを形づくっているだけに、そこではまた何ともいえない荒涼たる月の光を見ることがあるのであります。
 今宵、寺の縁側へ出て見ると、周囲をめぐる山巒《さんらん》、前面を圧する道志脈の右へ寄ったところに、富士が半身を現わしている。月はそれより左、青根の山の上へ高く鏡をかけているのであります。
 火燈口《かとうぐち》の下に座を構え
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